ちょっと前に書いた「死生観」のブログの反響が多くて、ちょっとビビッたせんらくやです。
意外とみなさん、ああいうこと考えてるんやな~と、うれしかったです。
 
あれから、ちょっと展開がありました。
山の先輩に薦められて買った「空海入門 ひろさちや著」という1984年の本。
私は宗教とは無縁で、空海も名前を聞いたことがある程度で、たしか「弘法大師」やったよな。くらいの無知な私でした。
 
それが、めっちゃおもしろかったので、その流れで同じ著者ひろさちやさんの「仏教早わかり百科」という本も購入。
正直、よう意味がわからんかった仏教のことが実にわかりやすく書かれていました。
 
 
そして、そこに書かれていたことの中にあった「諸法空相」という言葉に食いついてしまいました。
あらゆる物事は「空」という姿で「存在」している。
つまり、物事はすべて「空」である、ということ。
「空」とはこだわらないこと、あるいはレッテルをはらないことである。
「般若心経」にはそう言うことが書かれていたんだな。
ってのと、それを書いたのがあの西遊記でお馴染みの玄奘三蔵法師だったと
いうことも知ってまた驚き。
「空」に関してはもっと深いいろいろがあるのでここでは割愛させていただくとして。
 
私たちはいろいろな物事にこだわって物事を見がち。
「男だから・・・」「女だから・・・」
「最近の若い者は・・・」「昔はどうだった・・・」
「ゆとり世代は・・・」
もっとあるはず。
 
「お金を持っている人」「貧乏な人」
「きれいな人」「汚い人」なんかも
そんな「レッテル」、「こだわり」かもしれない。
 
その他には、いいことをした時、「今日はいいことしたな~」と振り返ってみること
これも「過去にこだわっていること」かもしれない。
もちろん、その反対も「今日はこんな嫌なことがあった」
なんてのも「過去へのこだわり」

整体師的な「こだわり」というと、「この技法はああだ、こうだ」とか、
「腰痛はああだ、こうだ」とか、とか。
 
そんなこだわりを捨てると、いろいろと軽くなって
視野が広くなって、受け入れるキャパが広くなって、
此岸の見方から彼岸の見方へ・・・と、なるのかもしれない。
 
なかなか、そこまで捨てきるには至らないだろうが
今、ここにある、この瞬間を丁寧に生きていく、という部分では間違っていなかったのかなと。

これを機に仏門の世界へ・・・というタイプでもない、私ですが、
宗教云々よりも、「知識」「智慧」「興味」の部分で(゚∀゚)キタコレ!!でした。
 
念願の御在所本谷ルートへ行ってきました。
一眼レフカメラ撮影の練習台になってくれた山仲間A氏、ありがとう!