酒が入ると覚醒してシャーマンにでもなってしまいます。
自称、「幸せもん」せんらくやです。
安心してください!
整体施術があるときは絶対に呑みません!!(笑)←当たり前やろ。
先日、ある人と教育の話で討論をしました。
その人の教育の柱は「スポーツで人格形成をさせたい」のようだ。
辛い練習を乗り越える力。
対戦相手に対する敬意。
勝つ喜び。・・・などなど、スポーツが人に与えるメリットはたくさんある。
私もスポーツ経験もあるし、今でもサッカー、フットサルは大好き。
野球も、マラソンもスポーツ全般は大好きなので、
スポーツが与えるいい影響は十分に感じているところである。
討論の間、その方の話をしっかり聞きました。
私も職業柄、人の話を聞いて分析して問題点を探すことは不得意ではないです。
短い施術時間で「結果」を出さないと、明日のごはんが食べられない身分なので
そこのところはかなり勉強したつもりです。
だから、いろいろ受け身になって聞いてしまいました。
すると、その方から見えてきたことは
「自分が育ってきた辛い思いをさせたくないから、子供にスポーツをさせる」
ということでした。
その方が言うには「子供は自分の行く道や方法、正誤の判断ができないから、
ある程度は親が道を示して攻略法的なものを与えて導いて、
金銭的にもサポートしてあげないといけない」らしいです。
気持ちはわかる。
一見、子供を悪い方に導かないように一生懸命頑張っている。
立派なんやけど、私的には違和感。
その方の話をいろいろ伺っていると
特殊な環境で育ったその方の中には何か自己否定するものがあるようだった。
いわゆる、アダルトチルドレンなのかなと。
アダルトチルドレンに関しては専門ではないので詳細はここでは控えるが
自分で自分を否定することは絶対によくないことである。
自己否定を続けている人はどこか心に闇があるかもしれない。
どんな人にも闇、黒歴史はある。
そんなことは当たり前。
いいことも悪いこともひっくるめて笑えるってのが大人になった証かもしれない。
人は大人になるある時期に、自分の個性を知って得手、不得手を知り
自己を肯定することで、自分のアイデンティティを確立して、
ある種の落ち着き、安定感を身に付ける。
そうして、人生の幸せをつかんでいくもんだと、私は思っている。
スポーツで必ず決定される「勝負」というものはそれを知る上でもってこいのものである。
自分の強さを知り、自分より強いものを知る。
負けることでチャレンジすることはとてもいいこと。
しかし、負けることで「あ、自分の活きる場所はここではないな。」と感じることも
人生においては大切だ。
それによって自分が活躍できる、輝く場所にたどり着く。
これは絶対にスポーツでなくても「競争」というものが生むいいことである。
それがもし「やらされていた」としたら?
親の保護下にいる子供は逃げ道がなくなる。
「お父さんが喜ぶから」
「お母さんが喜ぶから」
「ぼくが、わたしが我慢すればいい。」
「でも、負けたら怒られる。」
「負けた自分が悪い。」
そんな自己否定が続けばまた新たなアダルトチルドレンが生まれるだろう。
圧倒的な情熱が子供からあふれているのを感じたから「サポート」する。
自分があきらめた夢を子供に託すのは「サポート」ではない。
自己否定を乗り越えることを子供に託していることに似ていないか?
幼児虐待、不登校など子供を取り巻く問題はたくさんある。
一見、子供の問題だが実は大人の問題なのではないだろうか。
どんだけ言葉を積み重ねてもカチコチに固まり切った大人の心は簡単に変わらない。
過去と他人は変えられない、未来と自分は変えられる。
その方と議論が進んでいくうちにそんなことを感じて、なんか寂しい気持ちになった。
私の教育の柱は「幸せになる力を持ってほしい」。
それだけ。
自分で判断して決定して、失敗しても立ち直ってまた、前に進む。
そして、自分の幸せをつかむ。
サッカーでも野球でも、音楽でも絵画でも、山でも、料理でもなんでもいい。
本人が本人の意思で思う「幸せをつかむ力」を持てばいい。
幸せってのは人それぞれ。
良いとか悪いとか。
レベルが低いとか高いとか。
お金をたくさん持ってるとか持ってないとか。
そんなものはありえない。
幸せはとてもシンプルなもののはず。
心の底からあふれてくる「気持ちいい~~」ってやつでしょ。
とりわけ、酒と山があれば私は幸せかもしれない。
幸福と教育についてはもっとなんかあるんやけど
まだまとまっていないのでとりあえずこれはピースの一つ
乱文失礼しました。

鈴鹿で一番好きなところ 清水の頭にて
自称、「幸せもん」せんらくやです。
安心してください!
整体施術があるときは絶対に呑みません!!(笑)←当たり前やろ。
先日、ある人と教育の話で討論をしました。
その人の教育の柱は「スポーツで人格形成をさせたい」のようだ。
辛い練習を乗り越える力。
対戦相手に対する敬意。
勝つ喜び。・・・などなど、スポーツが人に与えるメリットはたくさんある。
私もスポーツ経験もあるし、今でもサッカー、フットサルは大好き。
野球も、マラソンもスポーツ全般は大好きなので、
スポーツが与えるいい影響は十分に感じているところである。
討論の間、その方の話をしっかり聞きました。
私も職業柄、人の話を聞いて分析して問題点を探すことは不得意ではないです。
短い施術時間で「結果」を出さないと、明日のごはんが食べられない身分なので
そこのところはかなり勉強したつもりです。
だから、いろいろ受け身になって聞いてしまいました。
すると、その方から見えてきたことは
「自分が育ってきた辛い思いをさせたくないから、子供にスポーツをさせる」
ということでした。
その方が言うには「子供は自分の行く道や方法、正誤の判断ができないから、
ある程度は親が道を示して攻略法的なものを与えて導いて、
金銭的にもサポートしてあげないといけない」らしいです。
気持ちはわかる。
一見、子供を悪い方に導かないように一生懸命頑張っている。
立派なんやけど、私的には違和感。
その方の話をいろいろ伺っていると
特殊な環境で育ったその方の中には何か自己否定するものがあるようだった。
いわゆる、アダルトチルドレンなのかなと。
アダルトチルドレンに関しては専門ではないので詳細はここでは控えるが
自分で自分を否定することは絶対によくないことである。
自己否定を続けている人はどこか心に闇があるかもしれない。
どんな人にも闇、黒歴史はある。
そんなことは当たり前。
いいことも悪いこともひっくるめて笑えるってのが大人になった証かもしれない。
人は大人になるある時期に、自分の個性を知って得手、不得手を知り
自己を肯定することで、自分のアイデンティティを確立して、
ある種の落ち着き、安定感を身に付ける。
そうして、人生の幸せをつかんでいくもんだと、私は思っている。
スポーツで必ず決定される「勝負」というものはそれを知る上でもってこいのものである。
自分の強さを知り、自分より強いものを知る。
負けることでチャレンジすることはとてもいいこと。
しかし、負けることで「あ、自分の活きる場所はここではないな。」と感じることも
人生においては大切だ。
それによって自分が活躍できる、輝く場所にたどり着く。
これは絶対にスポーツでなくても「競争」というものが生むいいことである。
それがもし「やらされていた」としたら?
親の保護下にいる子供は逃げ道がなくなる。
「お父さんが喜ぶから」
「お母さんが喜ぶから」
「ぼくが、わたしが我慢すればいい。」
「でも、負けたら怒られる。」
「負けた自分が悪い。」
そんな自己否定が続けばまた新たなアダルトチルドレンが生まれるだろう。
圧倒的な情熱が子供からあふれているのを感じたから「サポート」する。
自分があきらめた夢を子供に託すのは「サポート」ではない。
自己否定を乗り越えることを子供に託していることに似ていないか?
幼児虐待、不登校など子供を取り巻く問題はたくさんある。
一見、子供の問題だが実は大人の問題なのではないだろうか。
どんだけ言葉を積み重ねてもカチコチに固まり切った大人の心は簡単に変わらない。
過去と他人は変えられない、未来と自分は変えられる。
その方と議論が進んでいくうちにそんなことを感じて、なんか寂しい気持ちになった。
私の教育の柱は「幸せになる力を持ってほしい」。
それだけ。
自分で判断して決定して、失敗しても立ち直ってまた、前に進む。
そして、自分の幸せをつかむ。
サッカーでも野球でも、音楽でも絵画でも、山でも、料理でもなんでもいい。
本人が本人の意思で思う「幸せをつかむ力」を持てばいい。
幸せってのは人それぞれ。
良いとか悪いとか。
レベルが低いとか高いとか。
お金をたくさん持ってるとか持ってないとか。
そんなものはありえない。
幸せはとてもシンプルなもののはず。
心の底からあふれてくる「気持ちいい~~」ってやつでしょ。
とりわけ、酒と山があれば私は幸せかもしれない。
幸福と教育についてはもっとなんかあるんやけど
まだまとまっていないのでとりあえずこれはピースの一つ
乱文失礼しました。

鈴鹿で一番好きなところ 清水の頭にて