整体も、山もおもろい!
おもろいことにはとことん入り込むたちです、せんらくやです。

山を歩いていると、とてつもなく、何かすごい力や気のようなものを感じることがあります。
大人数でワイワイ歩いているとそういう気配は少ないのですが、一人で、人気のないルートを
歩いている時には本当におもしろい。

私には比良と鈴鹿の二つのホームマウンテンがあり、どちらも歴史のある山々です。
そこで、その山々にはどんな歴史があったんやろうと、気になって、図書館で「町史」なるものを
借りてきて見ております。

今は大津市に吸収合併された、「志賀町」の町史には比良の山岳信仰の記述がありました。

時々、読み返したくなるような部分をちょっとここに書き記しておきます。

以下、志賀町史 第二巻 第2章 中世の生活と文化 1宗教と生活 
執筆 川島将生氏 西山恵子氏より抜粋

山岳修行者の様相

比良山地は南から北へ、霊仙山、権現山、蓬莱山、堂満岳、釈迦岳と宗教色の濃い山名が続き、かつて有名な霊山であったことを示している。奈良時代以降、古代における比良山での様々な宗教活動については、すでに第一巻で述べたが、有名無数の人々による宗教活動は中世という時代を迎えさらに多様な展開をみせていったと思われる。

(中略)

こうした比良山での修行がどんなものだったのかをうかがわせる話が伝わっている。
比叡山首楞厳院の沙門鎮源(生没年不詳。1007年~43年前後)が著した「本朝法華険記」上巻十八話は「比良山の持経者蓮寂仙人」と題されている。ある僧侶に夢のお告げがあって、「比良山の峰に一の仙の僧ありて法華経を誦す。諸仏の歎むるところ、諸天礼拝す」という。僧は比良山中を何日も探しまわり、やっとのことで松の大木が生えた巨岩の洞穴に一人の「聖人」をみつけた。

  血宍都て尽き、ただ皮骨のみあり。形貌奇異にして、青苔の衣を着たり。(中略)鹿・熊・みこう(大猿)及び余の鳥獣、諸の菓蓏(から)(木の実・草の実)を持ちて、仙人に供養せり。

という。七日後に僧は呼び寄せられて仙人の話を聞くことができた。

  我はこれ興福寺の僧、法相宗の学徒なり。号を蓮寂と曰う。(中略)永く本の寺を去りて、跡山林に交りぬ。身を治養し命を愛護することに、永く厭離を生じ、功を積み徳を累て、自ら仙人と作れり。山岳峰谷を往還遊行して、宿縁の追うところ、この山に来り、住せり。
  
という。僧は仙人からここに止まって修行するように勧められるが、自分には到底不可能であることを覚って去って行った。この話は葛川明王院に伝えられていたものを鎮源が採録したのであろう。

(中略)

日本には古くから山岳を神霊・祖霊の住む他界とする観念があった。水や稲作を支配する霊は山に籠り、生を享けるのも、死んで帰っていくのも、山であった。人々は山麓に神霊・祖霊を迎え、祈り祭った。そして定められた時期のみ山に入り他界と交流した。そのような禁忌の対象であった山岳に、常時修行僧が入り始めたのである。超自然神霊が籠もる霊山と認識された「七高山」の一つ比良山にも、九世紀には静安や恵達のような修行僧がいた。特に恵達は練行を修めて加持祈祷に特異な験力を持つ人で、「修験行者」の祖型と称して過言ではない。

修験道は平安時代の中頃から末にかけて、古来の山岳信仰が密教や道教の影響を受けて成立する宗教体系である。山岳で修行して超自然的能力を獲得し、その力を利用して人々の救済活動を行う。教理・教説よりは峰入修行と加持祈祷を特徴とする実践的な宗教である。

抜粋分ここまで

と、いうことで、極々一部だけですが、おもろいでしょ?

聖人がいたといわれる巨岩の洞穴ってどこやろ~とか
普段歩いている登山道に修行僧がたくさん歩いていたとか
古代のロマンがあふれております。

そして山岳で修行したら超自然的能力を獲得ともありました!

お~、私も超自然的能力を獲得して、バンバン、人の痛いところを消していけるようになれへんかな~なんて、あほなことを考えています。

まあ、修行の「修」の字もなく、遊びに行ってるだけなんで無理やろうね~ww





2016年2月11日 比良 堂満岳からみた武奈ヶ岳