最近、いろんなことがフラットになってきて

特に発信したいことがなくなってきていました。

だからブログの更新も激減、せんらくやです。
それでも見捨てないで毎日200件前後のアクセスありがとうございます!!

「フラット」というのは悪い意味ではなく

感情や体調の下降が少なくなって「安定」という感じ。(経済的には超不安定だがニコニコあせる

経済的という意味ではどんな商売もそうだろう。

うちほど不安定ではないだろうが、ある時はある、ない時はない。
7周年でそういう不安定さにも慣れてきたかな。(←いやいや、もっと頑張れ!)



感情的にもそう、いろんなことに感謝できるようになったら
「怒り」のような感情がわきにくくなってきたようにも思う。

つい最近まではやたら「怒って」いたかもしれないなと、こないだ思った。


「怒り」という感情は東洋医学では「肝」に相当するのだが
「激しい怒り」は肝の気を傷つけて、その働きを狂わせる。
また、肝血が不足するとわずかな刺激にも怒りを覚えやすくなるとされている。


肝は全身に気を順調にめぐらせて、脾胃の消化吸収を助け、精神を安定させる。


テレビやネットでの情報を遮断、取捨選択するようになってからかな・・・



何気なくつけているテレビ。
ある時「この情報、必要かな?」とおもってテレビを消した。(←電気代節約とのうわさも?)


ヤフーのトップページにいろんな事件や芸能スキャンダルとかがあるけど

「時間ないから、これはいらんわ」とクリック拒否。
必要な週末に行く予定の山情報のみをクリックする。(←おい、時間あるやんけ!)

そうすると、物足りない感はあるが、ざわざわする感じがなくなってきた。

別に心が病んでいたわけではないはずだが、

小さな傷みたいなものは多かったのかもしれない。



最近のテレビがどうのこうの、Yahooの記事がどうのこうのってのは

ついこないだまでの私なら「コマーシャリズムがどうの、記者の質がどうの」と
いろいろ、思うところがあったので、そういうものに対して苛立ち、怒りみたいなものがあって、

自ら肝気を病ませていた。と、振り返ると思う。


ところが最近はいい意味で無関心。

テレビの質がどうであろうとコマーシャリズムがどうであろうと

私の命には関係がない。興味がない。のである。


山を歩くようになってから学んだことは多いと思う。

そんなこともその一つで判断基準が「それ、命に関わるかな?」である。

大抵のことではこの現代社会、直接的に命に関わる問題は少ないはずである。

小保方さんが「スタップ細胞はあります。」と言おうが

サッカー日本代表が一勝もできずに敗退しようが

27時間もテレビがやってようが

古館一郎が、なんか大変なことを言おうが


私の命を脅かすことではない。
関係ないのである。


だからといって、自己本位に生きているわけでもなく

三重岳連遭難対策委員会、レスキュー比良、
赤十字防災ボランティアの活動もさせていただいている。
知らないことを知る楽しみ、できることを自然体でやる。
そんなことにも何かを見いだせるようになれたのも、最近。


フラットな気持ちになれば、クライアントさんの状況も繊細に感じられるようになる。

結果的に整体にもいい影響が出ている。


私の知り合いのフランス人のヨガの先生はコーヒーを一週間に一杯しか飲まないそうだ。

刺激を減らすことで心の安定を保ち、いい指導?レッスン?ができるようになったらしい。


そこまで私はストイックにはできない。

コーヒーもビールも好きだ。

しかし、量は確実に減っているかもしれない。

以前は「あれば呑む」だったが最近は「ココイチ」って時に

確実な「一杯」を味わっていることが多いかもしれない。



「だから、何?」って感じですが

要は酒は旨いってことかな。


もちろん、それが良いとか悪いとかを決めるつもりもないし

決める必要もない。

人それぞれで、いいと思う。


自然と触れ合うことも「怒り」の感情を少なくさせてくれているだろう。

もちろんその自然はリアルで生易しいものではない。


きれいな写真のリアルは
結構暑い日にタープの下で旨いコーヒー。
エアコンのよく効いた屋内とは違う心地よさがある。

そして、虫もいる。


きれいな写真のリアルは汗だくになって
20kg位担いで標高2200mまで歩いてきたこと。




きれいな写真のリアルは
この後、ガスって標高3000で雨にも会った。



写真で観るだけよりもっと地味で過酷なことももちろんある。

しかし、きっつい登りの途中、ふと見上げた景色に言葉を失う。
写真には収まりきれないもの。


そんなところで学ぶことは実に多い。