第1回の「小説家は寛容な人種なのか」は、特におススメです。小説を1つや2つ、書くのは、そうむずかしいことではない。しかし、何作も、何年も書き続けること、孤独な作業の多い小説家として生き続けていくことは至難の業である、ということを述べています。約35年ヒット作を出し続けてきた著者だけに、重みが違うなあと感じました。
小説というのは・・・とても間口の広い表現形態なのです。そして考えようによっては、その間口の広さこそが、小説というものの持つ素朴で偉大なエネルギーの源泉の、重要な一部ともなっているのです。だから「誰にでも書ける」というのは、僕の見地からすれば、小説にとって誹謗ではなく、むしろ褒め言葉になるわけです。(p.15)
そして、小説を書くというのは、頭の回転の速い人にはあまり向かないのではないか、という指摘も面白いですね。なぜかって?それは、小説は、効率からは遠く、「かなりまわりくどい、手間のかかる」表現だから、と村上さんは言います。メッセージがあるなら、それをストレートに言語化したほうがはるかに早いし、一般の人にも理解されやすい。だから、頭の回転の速い人なら、小説を選ばず、別の表現でいく場合が多いと。
小説を書くというのは、とにかく実に効率の悪い作業なのです。それは「たとえば」を繰り返す作業です。・・・開けても開けても、中からより小さな人形が出てくるロシアの人形みたいなものです。・・・しかし小説家に言わせれば、そういう不必要なところ、回りくどいところにこそ真実・真理がしっかり潜んでいるのだということになります。(p.22)
この「たとえば」を繰り返す作業という表現、僕はとても好きです。
ビジネス書や学術書が一般的な法則や理論、他の人にとって参考になるような知見を広めることを念頭に置いているとしたら、小説ってなんなんだろう?それらとはずいぶん違うよな、なんの意味があるんだろう?って、僕は前から思っていました。まあ、純粋におもしろいから読むという(僕にとっては娯楽目的の)小説もあるのですが、一方で、日常的にはちょっとひっかかりながらも、スルーしていたり、考えないようにしようっとスキップしたりしていたことを、思い起こしてくれたり、ときには、グサッと突かれたりする小説もあります。その点では、小説は映画にたいへん近い表現だと思います。もっとも、映画よりも、自分のペースでスローで楽しむことができ、また立ち止まることもしやすいので、映画よりは、さらに回りくどい代物なのでしょうね。
たぶん、娯楽メインのほうじゃなくて、そうしたメッセージ性のある小説は、たしかに非効率だけれども、ビジネス書や学術書、あるいはエッセイなどにはない、深みもある気がします。なんと言ったらいいんでしょうか、「たとえば」の繰り返しの中で、本を読むことで擬似体験ができるから、それで、よく腹落ちするというか、心に残るというか、そんな気がしますね。ビジネス書や学術書、エッセイの多くが、ブレーン、脳で理解するのだとしたら、小説は感覚かハート・心でしょうかね?
僕は文学とは?なんて大仰なことを語るつもりは全然ないんですが、古典として残っているものの多くは小説ですよね、エッセイとかじゃなくて。徒然草などは例外的かと。それは、小説のほうが早く伝える・理解するという意味では、非効率だが、人の心に長くとどまる仕掛けという点では優れているから、と言えるかもしれません。
そんなふうに小説の特徴をとらえると、以前から平野啓一郎さんも言っていますが、小説は、スローリーディング(アンチ速読)でいくのが絶対味わい深いんでしょうね。
というわけで、村上春樹さんの小説、もう少しじっくり読んでみようと思います。
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