三浦展さんの「第4の消費」を読んだ。人々の消費行動やその背景にある価値観がどう変わってきて、どこに向かおうとしているのか述べた大変気合の入った本だ。
今日は、彼の分析と予測が合っていると仮定したうえで(この仮定には議論の余地はもちろんあるが)、時代の移り変わりを踏まえて、学校教育は変わらないといけないのかどうか、について少し考えてみたい。
この本では、消費について30年区切りで、4つに分けて解説している。
①1912~1941年 大都市を中心に中流層が消費を楽しみ始めた時期。国民の価値観はnational(国家重視)。
②1945~1974年 全国的に大量生産、大量消費が広がった時期。工業化の進展。一億総中流化。国民の価値観はfamily(家や会社重視)。3種の神器が普及。一家に一台。
③1975~2004年 低成長、バブルとその崩壊。消費の単位が家族から個人へ。価値観はindividual、個性化、多様化を重視。一人一台の時代。
④2005年~ リーマンショックや震災を経た時代。人口減少とかつてない高齢化に突入。価値観はsocialでつながり重視。シェア志向が高まる。数人で一台。
ただし、著者も断っているように、第4の消費(④)になったからといって、①~③がなくなるわけではない。重なるという意味でとらえたほうがよいらしい。
僕としては、価値観の変遷、national、family、individual、socialという語が時代の象徴的で、たいへん分かりやすく感じた。
ところで、ここで話を学校教育(小中だけではなく高校や大学も)に引き寄せて考えてみたい。戦後の学校教育は大きく2つの理念があった。
ひとつは体系的な知識の習得を重視すること(系統主義)。これはともすれば、つめこみ教育だとか受験戦争のような言葉で批判されてきた。もうひとつは、教えられるよりも、自ら経験して知識を得ることや知識を活用することを重視する考え方(経験主義)。こちらはともすれば、体系だった知識は習得できない懸念がある。
ゆとり教育を導入して総合的な学習の時間を増やしたのは、体系的な知識の習得に置かれていたウェイトを、経験的なほうで少しふれさせた。だが、その後ゆとり教育で学力低下との批判がなされたのは、体系的な知識を重視する振り子への揺り戻しであったとも考えられる。
本当は両方とも重要だとは皆思うことだと思うが、どちらをより重視するのかとか、どういう配分でやっていくかは大変難題である。
さて、三浦さんの分析と学校教育の変遷を合わせて考えてみる。
①の第1の消費の時代は、国家重視であり、教育勅語などを通じて、忠実な臣民となるような教育がなされきたと言えるだろう。
②の第2の消費の時代では、大量生産する工業化社会で活躍できる人材を、学校教育の中でも育てることが、社会からの大きな要請であったと思う。指示を受けたことや分業されたことを卒なくこなすことが重要となったため、そこでは、経験的な知識よりも体系的な知識のほうが重視されたのではないか。受験戦争が激しくなってきたことも重なる時期である。
③の第3の消費の時代は、個性やカスタマイズの要求を満たす商品やサービスが重要となってきた時期だ。ここでは、体系的な知識も必要だが、経験的な知識習得も重要とされるようになった。大学入試も多様化し、一芸入試は極端かもしれないが、筆記試験なしでパスすることも増えてきた時代である。
では、第4の消費の時代に適した学校教育とは、というクエスチョンだ。やっとここから本題なのだが、長くなったので、あとで続けたい。