ブラポニョ☆文学散歩
須賀敦子
『遠い朝の本たち』
『遠い朝の本たち』は、須賀敦子さんの記憶の中のひとと本をめぐる16の物語です。

須賀敦子は1943年東京空襲があるという情報のため、西宮市殿山町の実家に家族と共にもどり、小林聖心女子学院に編入学します。この頃、須賀敦子さんの実妹の北村良子さんや俳人の稲畑汀子さんも小林聖心女子学院で学ばれていました。
小林聖心で、遠藤周作のお母様、遠藤郁に音楽を習ったそうです。

最初の物語『しげちゃんの昇天』
「遠い朝の本たち」からの一編「しげちゃんの昇天」は、『しげちゃんにさいごに会ったのは』と、はじまる。タイトルからして、ああ、しげちゃんは、既に天国なんだ、と・・・
『しげちゃんの昇天』
小林聖心女子学院
<その上授業がまもなく廃されて、私たちは、教室を改造して学校内にもうけられた工場で、航空機の製造工程のいくつかを任されることになり、私は、いうことをきかないと頭を締め付ける、あのなんとかという金の輪を外してもらった孫悟空のように、有頂天だった。………学校工場の研修が終って、それぞれの作業の名称でよばれる部署に配属されたとき、しげちゃんと私は同じ部署に決まった、それが彼女と話すようになるきっかけといえば、きっかけだったろう。>

作者の須賀敦子さんと小学校からの同級生のしげちゃんのエピソードが、年代を追って綴られ、最後に、しげちゃんのお姉さんからの、『しいべが今朝はやく死んだの』の知らせとともに、作者が最後にしげちゃんと会った時の、涙ぐんだしげちゃんの言葉が、記される。
「人生って、ただごとじゃないのよねえ、それなのに、私たちは、あんなに大いばりで、生きてきた。」

須賀敦子さんの、亡き友人への情愛がにじむ描写によって、知らぬまに、心のなかで、しげちゃんが、愛おしく息づいていたらしく、しげちゃんの死が、ただ悲しく、いたわしいのだった。
須賀敦子さんは昭和4年兵庫県武庫郡に三人兄弟の長女として生まれます。彼女は父ゆずりの本好き。女が本を読んでると、女はろくなことにならない、と言われた時代です。しかし、彼女は父から母から、叔母から本を贈られて育ちます。戦前戦後と青春を本とともに過ごしたなかで、彼女は同級生のしげちゃんにだれよりも影響を受けます。しげちゃんは女子大を卒業して修道女に、彼女はフランスに留学します。そして35年後に再会します。その再会場面が胸を打ちます。

『トリエステの坂道』
神戸市北野町
須賀敦子『トリエステの坂道』はイタリアの詩人ウンベルト・サバが生まれ育った辺境の町トリエステを訪ねる紀行文ですが、印象に残るこんな名文を書かれています。

<丘から眺めた屋根の連なりにはまるで童話の世界のような美しさがあったが、坂を降りながら近くで見る家々は予想外に貧しげで古びていていた。裏通りをえらんで歩いていたせいもあっただろう。…………軽く目を閉じさえすれば、それはそのまま、むかし母の袖につかまって降りた神戸の坂道だった。母の下駄の音と、爪先に力を入れて歩いていた靴の感触。西洋館のかげから、はずむように視界にとびこんできた青い海の切れはし。>

トリエステの坂道の風景、須賀さんが思い出したのは子どもの頃、母親と歩いた神戸の坂道でした。
 実は須賀さんの大叔父にあたる方が、当時神戸北野町の風見鶏の館の西隣の大きなお屋敷に住まれていたので、そこからの帰り道のことを思い出されたのでしょう。
しかし現在は神戸には高層ビルが立ち並び、北野町の坂道からは、なかなか「青い海の切れはし」を見ることができません。
須賀さんの記憶にあった北野町の坂道の景色は、夙川に住まれていた昭和10年ごろのお話です。

須賀さんはこんな坂道をお母様に手を引かれて、つま先に力を入れて下って行かれたのでしょうか。

須賀さんの物事の本質をきっちりと捉え、それ以上でもそれ以下にも書かないない。重かったり大きすぎたりする言葉を使わない。といった自らを厳しく律した魂の静寂を思わせる文章の礎となった「遠い朝の本たち」。本書は読者の心にいつまでも忘れ得ぬ「須賀敦子」を刻んでいく。
夙川、東京、フランス、イタリア、東京と暮らした須賀さんが、最期に戻ってきたのが西宮市、現在甲山霊園に眠っています。
おしまい( ^-^)ノ∠※。.:*:・'°☆