風街ひとりごと

音楽と共(友)に歩んで来た自分にとって部屋内から外で、しかも歩いて聞ける画期的なウォークマンの誕生。

ウォークマンにスポットライトを当てます


SONY
盛田昭夫
WALKMAN

ソニー創業者・盛田昭夫は、なぜ和製英語の「ウォークマン」を海外でも貫いたのか



盛田昭夫は家業の酒造会社を継ぎ、その経営者として保証された安楽な生活を送るという選択をしなかった。


あらゆるリスクを覚悟のうえで、電子工学に対する思い入れを実現する道を選んだ。


 電気炊飯器のプロトタイプから始まった盛田の小さな会社、東京通信工業は、エレクトロニクス機器の巨人、ソニーへと成長を遂げる。


盛田はこの会社にその生涯を捧げ、ポータブルのトランジスタラジオからプレイステーションに至るまで、革新的な技術や製品を休みなく世に送り続けた。


 また同時に、音楽を外に持ち歩けるようにした功労者でもある。その製品「ウォークマン」は世界中の辞書に載るまでになっている。


引退して楽な生活を送ろうという考えなどまったくなく、健康上の理由からその地位を離れるまで、ソニーの経営者としてその手腕を発揮した。


生い立ち


 1921年1月26日、名古屋の近郊で生まれる。(盛田家の出自は常滑だが、盛田自身は名古屋出身である)日本の生活水準からすれば、盛田家は裕福な中産階級だった。

盛田は家業の酒造業を引き継ぐはずだったが、その父親の会社にほとんど興味を示さなかった。


時間を見つけては電子機器をいじくり回すのが好きだった。たちまち熱心なアマチュアの電子機器マニアになり、学業そっちのけでラジオやレコードプレーヤーなどの電子機器を製作していた。


 大学で物理学を専攻し、エレクトロニクスに対する関心をさらに膨らませた。第2次世界大戦では海軍に入り、中尉にまで昇進している。


 戦後、家業の酒造業を継ぐという安楽な道には進まず、1946年に東京に出て、その後生涯のパートナーとなる井深大と再会する。

井深 大
盛田昭夫

2人は19万円の資金を調達して新しい会社を創立、東京通信工業と名づけた(東通工)。空襲で破壊されたデパートの建物にオフィスを構えた。



成功への階段

 その後、盛田はソニーを世界最大のエレクトロニクス企業に育て上げる。同社を有名にしたのはその独自の小型化技術だ。

盛田が初めてつくった製品のプロトタイプ、風変わりな電気炊飯器はそれほど魅力的とは言えなかった。

ところが、次に無線機器の部品を手がけ、さらにその改良を続けながら、1950年代には、同社にとってその柱となる初めての製品、テープレコーダーを開発する。これは日本の第1号だった。


転機と決断

 盛田にとって最大の転機は、トランジスタラジオだ。トランジスタそのものは日本ではなくアメリカの発明であり、そのトランジスタ技術をベースに盛田がつくった小型のラジオも業界第1号というわけではない。

盛田は1953年にアメリカに渡り、ベル研究所からトランジスタ技術のライセンスを受けようとしたが、世界初のトランジスタラジオ、リージェンシーTR-1が商品化されたのは1954年10月、テキサスインスツルメンツ社とリージェンシー・エレクトロニクス社の合弁企業によってだった。しかし、そのことは盛田の評価をいささかも引き下げるものではない。


 東通工のラジオ第1号は、TR-55で、現在では、熱心なトランジスタラジオの収集家なら、その祖父母から喜んで引き取ろうとするような貴重な製品になっている。


1955年の8月に製造されたものの、その販売は日本国内に限定されていた。東通工初の輸出用ラジオは、1957年に導入されたTR-63だ。

 盛田の小さなTR-63は次の2つの理由から大成功をおさめる。第1に、どこから見ても革新的なデザインであり、贈り物に使えるようなその化粧箱には一緒にソフトレザーのケースと静電防止クロスそしてイヤホンが入っていた。


 第2の理由は、頑固なまでのその粘り強さだ。自らラジオを流通業者に持って回り、ニューヨークの電器店の経営者にその店に置いてくれるよう、売り込みに歩いた。


その過程で大口の注文を断ってさえいる。というのは、その注文主が東通工の名前をラジオから外せと要求したからだ。それでも結局、盛田は大量の注文をかかえて日本に帰国した。

SONY誕生

 1958年、盛田は社名の変更を実行に移す。グローバル化を熱心に説き、東京通信工業というような名称は、海外のマーケットに進出する場合には障害になるということを、いち早く察知したからだ。


新しい名前は「世界中どこでも認知してもらえるような新しい名前、どんな国の言葉でも発音が同じになる名称」だ、と盛田は語っている。その答えはソニーに落ち着いた。これはラテン語の音を意味するsonusと、アメリカ口語の快活な坊やを意味するsonnyとの造語だ。


 この盛田の戦略は見事にあたった。ある調査で、「日本製のラジオを扱ったことがあるか」とたずねられたアメリカのラジオ店がノーと答えた。それではソニーのラジオはどうかと質問されると、イエスと答えたという笑い話がある。


それ以来、東通工・ソニーは革新的なエレクトロニクス製品を着実に世に出し続けている。1957年にはポケットラジオ、1960年にオールトランジスタテレビ、1965年に初の家庭用ビデオテープレコーダーを開発した。

 1963年、盛田は家族とともにアメリカに移住、ソニーアメリカの経営に専念する。これは、伝統的に孤立主義、保護主義の価値観にこりかたまっている経営者の国、日本の出身者としては、大胆な行動だった。

盛田はソニーの製品を最高の品質を体現したブランドとしての位置づけを図りながら、アメリカでの売り込みに力を注いだ。まもなく、ソニーの製品はアメリカ全土で販売されるようになる。

WALKMAN誕生

 若者が音楽を行く先々で聞きたいと思っていることに気づき、盛田はポータブルのカセットプレーヤーの開発を提案する。周りの人たちには、録音機能のないカセットプレーヤーなど、どんなに小さくつくっても、そのマーケットがあるとは思えなかった。


盛田は頑として自説を曲げず、1980年にウォークマンを誕生させる。案の定、盛田のこの直感を裏づけてくれるようなマーケット調査は1つとして存在しなかった。盛田は言った。


「大衆には、どんなことができるのか、それがわからない。われわれにはわかる」

 面白いことに、初めのころ「ウォークマン(Walkman)」という製品名は世界共通ではなかった。

ソニーアメリカはこの名前をお粗末な英語だと考え、アメリカのマーケット用に「サウンダバウト(Soundabout)」と変えている。スウェーデンでは「フリースタイル(Freestyle)」、イギリスでは「ストウアウェイ(Stoeaway)」となった。


盛田はこのやり方が気に入らなかった。そこで、販売実績の数字が芳しくないと報告されるとすぐに、その販売不振を口実に、世界中すべて名称を「ウォークマン」に統一させた。それ以来、この名前は世界共通の言葉となった。

 ソニーのもう1つの技術革新はビデオの分野にある。ベータマックスはビデオの標準化戦争でVHSに敗れはしたものの、同社が家庭でのビデオ録画を業界の中核的技術にした功労者であることは間違いない。

 利益が増加するにしたがい、盛田はそのグローバル化のビジョンを頑固に追求する。

「世界的視野で考え、地域に合わせた行動を」という表現を使って、国境にとらわれないその企業理念を浸透させようとしていた。この表現は、セオドア・レビットやその後の大前研一といった経営学者が世の中に広め、今では経営の世界の言葉として定着している


英語を超える表現で、世界史に残るロングセラーに

ソニー創業者のひとりである盛田昭夫氏は、あのウォークマンの命名者。


氏のゴリ押しがなければ、その名が世界に轟くことはなかったといいます。


そもそもウォークマンは英語として正しくなく、典型的な和製英語(正しくは"Walker"か"Walking man")。スタッフから「こんな妙な和製英語はとんでもない」と反対されるも、盛田氏は「使うのは若い人だ。


若い人たちがそれでいいと言うのだからいいじゃないか」と押し切ったのだとか。


ところが海外で発売されると、ソニーアメリカでは"walk about"の造語"Sound about"、ソニーUKでは密航者を意味する"Stow away"の商品名で発売されることに。


しかし来日ミュージシャンらによって日本のウォークマンが土産として持ち帰られ、その口コミが浸透し、世界中にWalkmanの名が根づいたのだそうです。


この一件に関して盛田氏が憤ったのは、「ソニーにとって最初のグローバル・プロダクトがウォークマン」だったから。

それまで日本の電化製品は、国別の安全基準や電圧、周波数の違いなどの関係で、国内仕様・欧州仕様・米国仕様に分けて製造するのが普通。


しかしAC電源がなく、世界共通規格の単3電池でのみ作動するウォークマンは、世界中どこでも使える。

だから、世界中どこへ行ってもコカ・コーラがコカ・コーラであるように、名前を世界共通にする必要があったということです。



SONY物語


第1話 焼け跡からの出発

 1945年9月、東京での新会社創設のため、井深 大(いぶか まさる・当時37歳)は樋口 晃(ひぐち あきら)、太刀川正三郎(たちかわ しょうざぶろう)などの仲間とともに疎開先の長野県須坂から上京した。

 日本橋の白木屋の3階、電話交換台があった狭い部屋が新しい仕事場だ。焼け残ったとはいえ、建物の周りのコンクリートはヒビ割れ、窓ガラスさえない吹きさらしの粗末な一室である。それでも、だんだんと事務所らしい様相を呈してきた。

 10月、井深たちは念願の「東京通信研究所」の看板を掲げた。

 会社ができ、自分たちの持てる技術を世の中に役立てていきたいという目的はあったものの、正直言ってどの仕事から手を付けてよいか分からない。

 最初の給料こそ井深が貯金をはたいて皆に渡したものの、会社を存続させるためには、何か仕事をしなくてはならない。


それで思い付いたのが、ラジオの修理と改造である。研究所で短波放送の聴けるコンバーター(周波数変換器)を開発した。

戦争で壊れたラジオ、敵の放送を聴くことができないようにと短波を切られたラジオが世間にはたくさんあった。

これをスーパーやオールウエーブタイプのものに改良するのである。戦後の世界情況やニュースに飢えていた日本人にとって、ラジオの修理と簡単に取り付けられるコンバーターは喉から手が出るほど欲しい。そのため需要は結構あった。

 また、こうした井深たちの仕事が朝日新聞のコラム"青鉛筆"で紹介されると、ますますお客が増えていった。

しかも、これには余得があった。お互い気にかけながらも終戦のゴタゴタで消息の分からなくなっていた盛田昭夫(もりたあきお・当時24歳)から連絡があったのだ。


戦時中、軍需監督官として井深と親交のあった盛田は終戦と共に愛知県知多郡小鈴谷にある実家に戻っていたが、ある日配られてきた『朝日新聞』に目を通しているうちに、井深の記事に気づき、すぐさま井深に手紙を出した。


折り返し来た上京を促す井深の手紙を見るや、盛田は既に決まっていた東京工業大学の講師の件もあって、すぐに東京に出て、研究所に顔を出すようになった。これで、再び、井深と盛田の交際が始まった。

失敗作第1号の"電気炊飯器"


 ラジオの修理の次に研究所で手がけたのは、電気炊飯器。

 これは当時、軍需工場の閉鎖により一時的に電力が余っていたことと、日常生活に必要な商品を作りたいという井深の願望が一致したため考案されたのであったが、何分にも木のお櫃にアルミ電極を貼り合わせただけの粗末なもの。

水加減や米の種類によって芯があったり、お粥のようになったりで、うまく炊けることのほうがまれというありさま。

 これは井深たちにして初めての失敗作第1号となった記念すべき商品である。

 むろんお金の取れる成功作もあった。真空管電圧計が官庁に納入されるようになったのである。こうして、1945年の暮れにはどうにか、井深たちの仕事も軌道に乗り始めていた。
第2話 東京通信工業株式会社

1946年5月、左から盛田(当時常務26歳)と井深(当時専務39歳)


 1946年5月7日の昼、総勢二十数名の小さな会社「東京通信工業」(現ソニーの前身、以下東通工)の設立式が始まった。


社長には戦後すぐの内閣で文部大臣を務め、文化人でもあった井深の義父の前田多門(まえだ たもん)になってもらい、専務に井深、取締役に盛田が就いた。


 ところで、井深は新会社を発足させるにあたり、設立の目的を明らかにした"設立趣意書"を、自ら筆を執り、取締役の太刀川に預けていた。

それを設立準備のゴタゴタにまぎれて、すっかり忘れていた。後に、太刀川が井深に、「こんなことを書かれたんですよ」と見せたところ、「なかなか良いことを書いたんだなあ……」と自ら感心する始末。


 しかし、設立式当日の井深の挨拶は、その"設立趣意書"に書いたことと寸分も違っていなかった。いわく、「大きな会社と同じことをやったのでは、我々はかなわない。しかし、技術の隙間はいくらでもある。我々は大会社ではできないことをやり、技術の力でもって祖国復興に役立てよう」


 資本金は19万円。機械設備とてない。お金や機械はなくても、自分たちには頭脳と技術がある。

これを使えば何でもできる。それには、人の真似や他社のやっていることに追従したのでは道は開けない。何とかして、人のやらないことをやろう。この時から、既に東京通信工業の進むべき道は決まっていたのだった。


翌日から、全員が会社を盛り上げなければという気持ちで頑張った。その分、夜が遅くなる。あまり遅くまで仕事をしていると、白木屋の出口という出口にみな鍵をかけられてしまう。

そこで仕方なく非常階段から下りると、それを見とがめた警察官につかまって絞られる者も出る始末。

夜更けて非常階段から出て、泥棒と間違えられないほうがおかしいのである。苦労と言えば苦労、楽しいと言えば楽しい毎日である。苦労といえば、物を作ろうにも材料がないのが一番こたえた。  

東通工設立の翌日、井深たちは逓信省に挨拶に行き、真空管電圧計の注文を50台もらった。ところが、これに使う真空管が手に入らない。

軒並み闇屋を探し、軍の放出品が出ると聞いては秋葉原や金沢八景まで足を延ばし、遠くは茨城まで買いに行った。

しかし、せっかく買ってきた真空管も、規格がマチマチで、100本中、50本使えれば良いという代物ばかりだ。これでは能率が悪い。仕方がないので、会社から測定器を持って行って店先で検査をやって、店の者から嫌がられたりもした。 

工具もすべて自分たちの手製で、ハンダごてはむろんのこと、ドライバーは焼け跡からオートバイのスプリングを拾ってきて作る、コイルは買うことなど思いもよらずすべて自分たちで巻く、電話ケーブルの中身は試作品や試験配線に使うといった案配だ。

まあ、これも苦労と言えるほどのことでもない。 最大の苦労は、やはりお金のことだ。  盛田が金策に苦慮していたのは、設立当初の資金繰りということもあったが、加えて1946年2月に出された「金融緊急措置令」により、新円の切り替えが行われたことも大きく影響していた。そのため、新円かせぎということが必要になってきた。


第3話 新円かせぎ

売れに売れた電気ざぶとん


 "電気ざぶとん"は、井深が考案した新円かせぎの冬向け商品である。これは、2枚の美濃紙の間に細いニクロム線を格子状に入れて糊付けし、これをレザークロスで覆ったものだ。


石綿も、ましてやサーモスタット(温度を一定の範囲に保たせるための自動調節機構)といった気の利いたものは入ってない恐ろしげな商品である。

さすがに、これには東通工の名前を付けるのは気が引けて、"銀座ネッスル(熱する)商会"という名を井深が付けたが、物がない時代だけにこれが売れに売れた。

 社員の家族総出で、ミシンをかけたり、コードをかがったりの下請け作業である。これによって新円を随分かせぎ、下請け代金を新円でもらった家族も皆大助かりであった。

しかし、その分大事な毛布を焦がしたとか、ふとんに焦げ跡ができたという苦情も多く、電圧の上がる夜中など火事を起こさないかと作ったほうがヒヤヒヤしたものである。

 もっとまともな商品もあった。"ピックアップ"(レコード盤の音みぞから音楽信号を取り出す装置)だ。戦時中はレコードのピックアップなど禁制品である。

需要はあると見込んで作ったのが当たった。材料は、空襲による火事場の焼け跡に転がっている鉄を拾って来た。

これは焼きなまし(機械加工を行いやすくするための熱処理)する必要がないし、そこいら辺を探せばあちこちから出てくるので、大いに助かった。

 測定なんてできる時代ではない。すべて開発担当者の勘による手作りである。それでもなかなか音が良いと評判になり、後には量産するまでになった。


できたピックアップは"クリアボイス"と名付けられて、神田や秋葉原に売りに行くのであるが、当時は製品を入れる箱などとても手に入らない。売り物を新聞紙に包んで持って行くのがせいぜいであった。


 工場での製造のほうは、こうして順調に進んでいたが、問題が残っていた。営業の拠点となる事務所の移転先がまだ見つからず、引っ越せずにいたのだ。


 「そんなに困っているなら、京橋にある私のビルを使いなさい」。助け船は、岩間和夫(いわま かずお)の叔父が出してくれた。

 進駐軍のダンスホール用に白木屋の七階を改造するため、井深たちの事務所を取り壊すという日の朝のことだった。さあ、引っ越しだ。


東通工の面々は、張り切って準備を始めたものの、引っ越しの最中に、間仕切りは取り壊されるわ、外では白木屋の店員に応募する人が列をなして並んで見ているわ、そのうち、雨は降ってくるわで、悲惨な引っ越し風景であった。

 ところで岩間は、東大の地震研究所から東通工へ入った変わり種である。岩間と盛田は、名古屋市白壁町で家が隣同士。

しかも岩間は盛田の妹の婚約者でもあった。これは戦争中から決まっていたのだったが、終戦のゴタゴタで延び延びとなっていた。

東通工が設立されてすぐ、井深の仲人で岩間は結婚式を挙げた。そして6月1日、盛田に口説かれた岩間は東通工に入社した。

第4話 御殿山へ

御殿山に引っ越してきた夏、工場前で。向かって左から樋口、岩間、井深、盛田


 京橋区銀座5丁目の徳屋ビルに事務所を移して間もなく、東通工に新しい仕事の依頼が来た。旧軍用無線機を放送用の無線中継受信機に改造するという、NHKからの仕事だ。


 日本中の通信施設はその当時壊滅状態で、NHKの放送施設もかなりの打撃を受けていた。

そのため、これらスタジオの修理回復と日本各地に放送のための無線中継の受信所をつくり、放送の全国ネットを何とかすることが、戦後の復興のための急務となっていた。この任に当たったのが、当時NHKの改良課にいた井深の友人、島茂雄(しま しげお 後にソニー常務)であった。


ところが、戦後すぐの日本には全くと言ってよいほど資材がない。そこで目を付けたのが、軍の貯蔵物資。山梨・韮崎山中にあった大きな防空壕の中には陸軍の通信機材が置いてあり、その中に"地二号"という短波・中波のプラグインコイルの付いた対空無線の受信機がたくさんあった。


これを、島は「日本の再建と平和のために役立てる」ということで、もらい受けてきた。

 島は、この"地二号"の修理と改造を東通工に任せた。これが、NHKと東通工との最初のつながりとなった。


 このように、官需(かんじゅ)とNHKで利益の確保も何とかなろうかという折も折、また引っ越し問題が持ち上がってきた。


工場(吉祥寺)の持ち主が、自分で仕事を始めるからという理由で立ち退きを迫ってきたのだ。当時は電力制限を超えて使うと電気を切られることになっていたが、東通工の連中は、そんなことお構いなしに昼夜をたがわず働いてしまう。

そのために、工場の持ち主は、自分の所の電気を切られるのを恐れて、追い出しにかかったようだ。
 
 考えてみれば、工場と事務所が分かれていると何かと不便な上、経費もかかる。井深と盛田は、全員が一緒になって働ける場所はないかと、また貸家探しを始めた。


 1946年も、後わずかで暮れようかという時期での工場探しだ。たった1台あった中古のダットサンも度重なる故障に音をあげて売り払ってしまっていたし、その後は、インフレで新車を買うことなど思いもよらない。専務の井深、取締役の盛田2人揃って、暮れも押し迫った夜道を寒い思いをしながら歩き回るはめになってしまった。


 やっとのことで見つけたのが、品川・御殿山(ごてんやま)にある「日本気化器」(自動車用の燃料機器メーカー)が社員食堂として使っていたおんぼろバラック工場であった。ここが、現在のソニー本社のある所である。


 工場の建物は、確かに粗末であった。しかし、ここに初めて全社員揃って仕事ができるようになったという、一同の喜びは大変なものであった。



ソニーを1兆円企業に育て上げ、自分自身も億万長者になってはいたものの、盛田は決して仕事の手を休めようとはしなかった。

相変わらず活力にあふれ、その余暇をスキューバダイビングやスキー、テニスなどですごしていた。これらのスポーツは50歳を越えてから始めたものだ。


忙しいスケジュールをこなしていたが、テニスのプレー中に脳卒中に見舞われた。

この健康上の理由から1993年にソニーの経営から引退を余儀なくされる。1999年の10月に世を去った。

又、故盛田氏の妻、良子氏が2015年3月14日死去。享年85歳。ソニーの古手役員やOBたちの間では「ミセス」が通り名だった。


エピソード
ジョブス氏と盛田氏のエピソード

ジョブス氏と盛田氏が初めて会ったのは1979年です。ジョブス氏がソニーの3.5インチフロッピーを初代Macに搭載するためにソニーを訪れました。

その時にプレゼントをされたのが「WALKMAN」、ジョブス氏は感激しその場で分解したという逸話もあります。

ソニーの工場視察ではユニフォーム(同じジャンパー)を着て働く工員たちを見て盛田氏に質問をすると「絆だよ。」という答えに感動し、ソニーユニフォームをデザインした三宅一生氏にわざわざデザインを依頼し、持ち帰ります。

しかしアップル社での導入に社員は猛反対、断念しました。ジョブス氏は自分だけのユニフォームとして三宅一誠がデザインした黒のタートルネックを着るようになり、生涯それを愛用していました。

iPodの発売の際には、人を真似することが大嫌いであることが知られていたにもかかわらず「これは21世紀のWALKMANだ」と周囲に自慢した事も知られています。盛田氏の訃報を聞いてアップルのカンファレンスで「盛田昭夫氏は、私とAppleのスタッフに多大なる影響を与えました。」と弔意を表しました。

以上のような、エピソードからもジョブス氏がいかに盛田氏に心酔していたかが分かります。どんな偉人にも、尊敬する人がいるものだと思うと、自分でもそういった人を見つけられるといいかもしれませんね!



おしまい( ^-^)ノ∠※。.:*:・'°☆