風街散歩
愛を知る県⑥
数年前から一度はお墓参り
訪問したいと思っていました
岡田有希子さん
(1967年8月22日 - 1986年4月8日)
生存していたらこの 8月で
49歳を迎えていました
日本のアイドル歌手、女優である。
本名、佐藤 佳代(さとう かよ)。
愛称は「ユッコ」。身長155cm。
愛知県名古屋市熱田区出身。名古屋市立高蔵小学校、名古屋市立沢上中学校、名古屋市立向陽高等学校から堀越高等学校へ編入、卒業。
サンミュージックに所属していた。1980年代中期に活動したアイドル歌手のひとりであり、「ポスト松田聖子」としても期待されていたが、人気絶頂だった1986年(昭和61年)に飛び降り自殺した。
報道に端を発した若者の相次ぐ自殺は、大きな社会問題となった。当時のこの現象を「ユッコ・シンドローム」と呼ぶこともある
衝撃が駆け巡った30年前
当時から、アメリカンロック・日本ではニューミュージック系に傾倒していたものの、女の子のアイドルには、ビジュアル的に気になるものの、何かのきっかけが気になって注目していく流れでした。
彼女はまず、デビュー曲が竹内まりやの作品だった事
彼女のイメージが作られて、気になるアイドルになりました。
実は運命の4日前に大阪での公開番組収録に参加していて最初で最後の“生 有希子さん“を拝見しました。
その時、共演していたのが西村知美さん。
西村さんを拝見する度にその時の映像が今も浮かびます。
30年前
日本テレビの『スター誕生』の第46回決戦大会で優勝。桜田淳子や松田聖子らを輩出していたサンミュージックから、アイドル歌手としてデビューした岡田は、あっという間にスターの座に上り詰めた。
ところが、絶頂期を迎えた1986年4月8日にサンミュージックの屋上から飛び降り自殺を図ったのだ。
取材から抜粋
サンミュージックの相澤秀禎社長(現・会長)の取材。
4月5日
「有希子は、デビュー前から僕の自宅で下宿していたんですが、デビューして売れ始めたんで、一人暮らしを始めた。その3日後に有希子の住んでいた部屋に、のりピー(酒井法子)が入ってきたんです。そして、自殺する3日前に、僕の家に有希子が食事に来た。なんとなく元気がないから、"おまえがこれからうちの会社を背負っていくんだから、がんばらなきゃだめだよ"というと、"私なんかもう、だめだから""あとにいい子(=酒井法子のこと)がいるじゃない"という暗い話をしだしたんです」と、相澤社長は自殺前の岡田の様子を語ってくれた。
4月6日
岡田有希子さんは4月6日に名古屋で里帰りコンサートを開いています。
それも実家から歩いていける距離にある会場でした。
その日の夜に久しぶりに実家へ寄ったそうです。
岡田有希子さんは名古屋で仕事があっても必ずしも実家によらなかったそうです。
きっと、帰ると家族に甘えてしまう自分がいたから本心では帰りたい気持ちがあってもそうしなかったそうです。
実家に帰り、最近の写真ということで姉の成人式の写真などを見ていたそうですが
ある1枚の写真を見た時、妙に黙りこんでいたと母親が語っています。
それは父母姉の三人で写っている写真だったという。
そして、名古屋駅発午後8時53分の新幹線で彼女は東京へ向かい、母親が見た岡田有希子こと娘「佳代」の最後の姿だったそうです・・・・・
4月8日運命の日
自殺の真相
(メディア報道)
岡田は、4月8日の早朝、自宅でガス自殺とリストカットを図ったが、未遂に終わった。危険を察した事務所は岡田を事務所に連れてきた。
「僕が歯医者から戻ると事務所のビルの下が大騒ぎ。有希子が飛び降り自殺したんです。僕を待っている間、朝の自殺騒動について僕に何か言われるがいやで、屋上に言って飛び降りたんだと思ったんです。ところが、彼女が残していた1冊の日記風のノートが発見されて、それを読んで自殺の真相が理解できました」
その日記風のノートには、相手の男性の名前(=峰岸徹)はもちろんのこと、彼女が峰岸を思い、そのことがうれしくて、喜ぶさま。一方で、その恋は成就することがないと判断し、真綿でクビを絞められるような苦しみが克明に綴られていたという。
「有希子は峰岸さんに恋焦がれて、プラトニックな愛を持ち続けて、自殺したんです」(相澤氏)
峰岸さんは、岡田の自殺の真相を知って「正直、ものすごくショックです。僕は兄貴のつもりでいたんですが、彼女はそれ以上のプラスアルファがあったのかもしれない。それが愛だったら、責任を感じます」とコメントした。
実に厄介な問題だった。しかし、峰岸さんは、常にこの問題から逃れることなく生きてきた。そして、ドラマや映画で感動を与えるバイブレーヤーとして活躍。
お墓は名古屋市から西へ電車で40分程の場所、当初大阪から近鉄で行くのが段取りでは良かったのだが、なんか歴史上の人物と混同していてたのに気付き、今回は見送りました。
やはり、佐藤佳代さんとしての墓参りは失礼と思いました。
いつか強い想いが募れば行くかもしれませんが・・・
それより、熱田区付近をブラブラして空気を感じてるのが良いかと
名古屋市熱田区の
ゆかりの地
高蔵小学校
①彼女の実家付近の金山駅から高蔵小学校
や観聴寺(盆踊り)
小学生の頃
独立心の強い、しっかりした性格の子供だった。
そして、学校の給食が嫌いになって、『給食は嫌いだ』という詩を作り発表した事もあった。
特に嫌いな『カレ-うどん』では、先生の所まで持って行き、「こんな変な物、よう食べん」と徹底ぶりを見せた。
三年生の頃になると、毎晩、本を読みふけり、夜更かしては母に注意された。
「早く寝ないと、学校に遅れるよ」
「どうして、人は寝ないといけないのだろう?こんなに本があるのに勿体ない!」
佳代は、哲学者みたいな事を言って母を驚ろかせた。
「あんたは、馬鹿か利口か判らないね」
「自分は利口だと思う。
エジソン見てみい。小さい頃に馬鹿扱いされても、あんなに凄いし。
私だって、大物になるかもよ!」
図書館に行っては、難しい名作本『小公女』『路傍の石』『次郎長物語』など読んだりした。
絵の大好きな佳代は、ゴッホの本『7才の犬のスケッチ』を目を輝かせながら、飽きる事なく、いつまでも眺めては感動していた。
「すご-い!やっぱりゴッホは天才だ!」
高蔵公園
②彼女が幼い頃よく遊んだ高蔵公園
4年生で本格的に絵に興味を持ち始める。
毎日、祖父が創作した黒板に落書きをして、絵画教室にも通い始めた。
この頃、佳代は母に対して夢を語った。
「1年経って、先生にもし『才能がある』と言われたら、芸術大学に行きたい!」
感性の鋭い佳代は絵を描く事に関しては、ズバ抜けた才能を持ち、写生大会では木々の緑や石段の描き方、城の量感、神社の屋根、雲の色にも気遣って、時間ギリギリまで食事も摂らずに頑張って描いた絵が入賞した。
5年生の時には、朝日新聞社の写生会で入選して、教育委員会賞など数多い賞を貰う。
6年生の時には、熱田神宮1番の『宮司賞』を獲得する程、絵に対する感性は豊かだった。
絵を描く喜びに「真剣に絵の勉強がしたい!!」と、両親に言い出して、6年生から、日本画や油絵を教えている先生の所に週1回、通いながら本格的にデッサンからの勉強を始めた。
沢上中学校
③彼女の出身中学である沢上中学校旧デニーズ桜山店
④歌手デビューが決まり、クラスメートが送別会を開いてくれた“デニーズ 桜山店“
名古屋市昭和区広見町4-44-2
<残念ながら2008年10月26日で閉店となります。>
現在は空地?駐車場?
デニーズ桜山店は地下鉄桜山駅8番出口を出て西へ5分程歩いた所。駐車場も広く石川橋にあるデニーズとともによく利用されていました。
向陽高校
⑤彼女が1学期まで在籍した名古屋市立向陽高等学校→その後、堀越高校(東京)
熱田神宮
熱田神宮って
もう
最高です!と・・・
その他には
彼女がファースト・デートした東山動物園。
自身は昔コアラを見に行きましたね~、名古屋城とセットで
事務所があった四谷大木戸ビルは当時の面影を残していて、数十年振り、2年前訪れています
歌手の条件
向陽高校
向陽高校に合格することが条件にあったため、とりあえず12月の決戦大会はあきらめ
次の決戦大会に賭けた。
その日からユッコの猛勉強が始まる。朝、昼、晩、深夜の2時3時まで机に向かう日が続く。
「でも不思議なものですね。一生懸命勉強すると、クラスで5番くらいの成績だったんだけど、テストのあるたび、ちょっとずつ席次があがっていくんですよ。5番が4番に、4番が3番に。
母の作戦
これはもしかすると・・・・なんて考えてネ !」
そして、第一条件、第二条件とクリアしていくのである。後は高校に合格するだけ。
この頃になると、母も夜食を作って応援してくれるようになる。というのも夜食をたくさん食べてブタのように太れば決戦大会に出ても間違いなく落選するという、母なりの作戦があったのである。
昭和58年3月19日 向陽高校の合格発表の日
「あった ! 65番、私の番号があった !」
ユッコは条件をすべてクリアしたのである。
「取材でこの話が出るたび、みんながよくがんばったね、ってほめてくれる。私も半分くらい(?)は
自分でもエラかった(!?)なんて思ってるけどネ」
学校群制度
名古屋は、学校群制度である。 複数の学校を組み合わせたいくつかの゛群゛を作り、生徒に選ばせる受験制度。
どこか一つを志望するわけにはいかない。ユッコの場合゛菊里=向陽゛という群を受験し合格した上で、抽選により゛向陽゛に振り分けられたのである。
もっと詳しく言うと、ユッコ受験当時の学校群は上位から
2群(あさひがおか高校・ちぐさ高校)
1群(ちぐさ高校・きくざと高校)
6群(めいわ高校・なかむら高校)
15群(こうよう高校・きくざと高校)となっていました。
ちなみに、当時のエリート進学校は、上から旭丘、明和、千種、菊里、向陽…でした。
向陽は5番目なのです。ユッコの実家からの通学を考えると、これらの中では一番向陽に通いやすかったのだと思います。
群に合格した後は、成績順に、1番はA高校、2番はB高校、3番はA高校…というふうに振り分けられます。それで、ユッコは向陽に行けたのですから、とてもラッキーだったわけですよね
その中で、印象的な一枚の写真の場所に“ひつまぶし“を食べてから行ったので暗くなりました
実在の場所に行くと当時の
身長が確認出来ましたね
作詞・作曲 尾崎亜美
作詞:松田聖子
作曲:坂本龍一
愛を知る県
つづく( ^-^)ノ∠※。.:*:・'°☆