風街茶房

大村 雅朗
おおむら まさあき
1951年5月8日 - 1997年6月29日
享年46歳

福岡県福岡市博多区出身の作曲家、編曲家、キーボーディスト。多くのヒット曲を手がけたことで知られる。


略  歴

1951年5月8日、京染店経営の家庭の次男として生まれた。福岡市立奈良屋小学校、福岡市立博多第二中学校、福岡大学付属大濠高校、ヤマハ合歓音楽院(現・ヤマハ音楽院)バンドディレクター科を経て、1975年に財団法人ヤマハ音楽振興会本部研究室研究員第一期生となる。


その後プロとしての活動を開始。

1978年の八神純子「みずいろの雨」(編曲)で一躍有名となり、特に1970年代から80年代アイドル全盛期にヒットチャートを席捲した。


1983年の松田聖子「SWEET MEMORIES」(作・編曲)が第25回日本レコード大賞で編曲賞を受賞。

八神純子「パープルタウン」(編曲)、大沢誉志幸「そして僕は途方に暮れる」(編曲)、原田知世「早春物語」(編曲)、 渡辺美里「My Revolution」(編曲)など数々の曲を誕生させた。


1997年6月29日、肺不全のため46歳の若さで逝去した。

聖子ちゃんに
歌ってもらいたい

遺作となった作曲作品「櫻の園」(1999年)は、聖子ちゃんに歌ってもらいたいと、友人であった作詞家の松本隆に託されていた曲で、早世した大村の死を悼むような詞が松本により付けられた。




アーティストからの信頼も厚く、佐野元春、大江千里、大沢誉志幸などから彼の早すぎる死を悔やむ声が聞かれた。


大江千里は、彼に捧げる追悼曲として「碧の蹉跌」を発表している。



渡辺美里


大村さんはあの「My Revolution」の編曲を手がけました。そうです、あのTKこと小室哲哉さんが作曲家としても有名になった曲です。

大村さんのアレンジは小室さんの曲に見られる転調部分は小室さん自身のアイデアでしたが、転調直前のコードの使い方は大村さんのアイデアだったそうです。

キーは決まっていましたが大村さんのアイデアで曲調が明るくなったそうです。作詞+作曲+歌手だけではその曲の良さが出ない事がありますが、編曲家といういわゆる最後の決め手を加えてくれる存在を知らしめてくれた方でした。

確かに現在はプロデューサーが前面に出ている、またセルフプロデュースが主流ですが、あの当時に編曲家の存在を位置づけたのは大きいと思います。

渡辺美里は大村と他の作品製作中に互いの意見の食い違いから喧嘩別れしてしまい、「ほんの些細なことで当時はお互いに譲れなくて、仲直りできないまま大村さんが天国に行ってしまって、素直に謝れなかった事を今でも後悔している」などと後年雑誌等のインタビューで語っており、1997年大阪城ホールのコンサートでは涙ながらに大村の死を惜しんで歌を捧げた。

生前には小室哲哉からの信頼も厚かったという。



同郷の松田聖子のデビュー当時からの良き相談相手でもあり、聖子からは実兄のようにたいへん慕われていた。


また、ポップスソングを数多く手掛けた大村だが、ハウスミュージックやテクノなど、打ち込み系音楽に非常に興味があったともいわれる。


松田聖子との出会い

そんな 大村雅朗の人生に とって 忘れられない出会いが ありました


それは 昭和55年の事です 。

大村の前に 小田裕一郎が 作曲した【青い珊瑚礁】と 言う 楽曲のアレンジの依頼が 来ました 。

聞けば 歌うのは 大村と 同じ 福岡から 出てきた 、松田聖子と言う新人。


同郷と言う事もあり 親近感を抱く 大村。


大村は 【青い珊瑚礁】のイントロから 軽快な アレンジを つけ ヒット 。


大村のアレンジは 松田聖子と 相性が良いと 好評 だった。



財津和夫が作曲した 、【夏の扉】と【白いパラソル】の アレンジも 大村が 担当 これまた ヒットに 繋がる 軽快なアレンジをしました 。


聖子に とって芸能界の兄として 大村を慕うようになります


デビュー間もないころ 聖子は 、
ある日、両親と 喧嘩 。
家出をします。 行き先は 大村の家 。

とまどう 大村に 聖子は 、
【だって 行くとこ 他に無いんだもん】
と行って 号泣 。

大村は 聖子の話を 聞いてゆっくりと諭し 、聖子の実家に電話を して 説明をして 家に 送り届けたのです。


こうして 聖子は 恋のこと 結婚のこと 悩み 事あるごとに 大村に 相談をする事になります 。


何でも「まあ君」「聖子ちゃん」と呼び合う仲だったとか。

何と言っても『青い珊瑚礁』からの付き合いですからねえ。

シングル、アルバムの編曲・作曲を合わせると、一体どれだけの作品で聖子さんと関わったのでしょうか?

聖子さんにとっては、一番忙しい時代を共に戦い抜いてきたかけがえのない存在だったようですね。


B面なら書きましょう

そんな大村の編曲の才能を評価した関係者が 編曲じゃなく オリジナルの歌を 作曲してみては? と 言われ 大村は、でも編曲は 所詮 “裏方 “B面なら書きましょう 。


昭和58年 松田聖子は 21歳。大村は その聖子の為B面の曲を作ろうと 決意します。


普通のアイドルのように 伴奏を派手にして 歌唱力の下手さを カバー するのではなく 伴奏を少なめにして 聞かせるバラードを 聖子なら 必ず 歌いこなすに違いない と 考え、 あえて 聖子らしくない 大人のバラードを 書き上げます 。


大人の “ 詩 “

その曲を聞いた 作詞家松本隆は 奮えたと いいます 。


このメロディは きっと 聖子が40歳に なっても 歌える ならば 、それに 似合う大人の詩を つけねば と 考え 完成させました


松本 隆は

懐かしい 痛みだわ
ずっと前に  忘れていた
でも  あなたを見たとき
時間だけ 後戻りしたの...

と 作詞 。

タイトルを
スイートメモリーズ
に しました。


 松田聖子さんの80年代の曲のほとんどを手がけています。作詞の松本隆さんは知られていますが。サントリーのビールのCFで以前に流れていた(ペンギンのアニメーションで有名)「Sweet Memories」は最も有名なものですね。


唯一作曲した 【スィートメモリーズ】は 松本が40歳の聖子に 歌える歌をと 考え作詞した歌 聖子は とうに40歳を 超えました


今改めて 松本隆の詩を見ると まるで 聖子が 大村を偲ぶような歌詞でもあります 。

これを書いたとき まさか 大村が 早く亡くなると 思わずに 書いた詞なのに ・・・


【失った夢だけが 美しく見えるのは 何故かしら? 過ぎ去った 優しさも今は 遠い 記憶スィートメモリーズ…】


大村雅朗は 聖子とそして様々なミュージシャンの心の中に 優しく甘い記憶を残し 風のように 駆け抜けていきました 。



この曲は彼女のボーカルの良さが曲と調和されていてますね。


J-Popのアーティストと松田聖子さんを始めとしたアイドルの曲の編曲を時には同時進行させていたのですからすごいものです。





松本 隆  “ 今日の一枚 “


おしまい( ^-^)ノ∠※。.:*:・'°☆