以前にも、はっぴいえんどについては記事にしましたが、改めて図鑑に入れるならと
再び書くことにしました。


第21回の風街図鑑

はっぴいえんど
風街ろまん


1964年(東京オリンピック)以降の開発・近代化で急激に失われゆく『古きよき日本、東京の姿』を『風街』と言う架空の街にみるというテーマ。





風街とは、松本氏がはっぴーえんど時代、ライブ活動していた“渋谷”の伝説のロック喫茶“BYG”周辺を表現した街



はっぴいえんど通算2枚目アルバムのタイトル『風街ろまん』


大滝詠一、細野晴臣、松本隆、鈴木茂の4人で結成されたはっぴいえんど。


この歴史的名盤の本作、楽曲提供は大滝詠一氏が7曲、細野晴臣氏が4曲、鈴木茂氏が1曲(松本氏は作詞で10曲)と、圧倒的に大瀧氏がリーダー色を発揮してますが、やっぱり細野氏の提供した4曲が興味をそそられます。

A-風
抱きしめたい 3'32"
作詞:松本隆、作曲:大瀧詠一

空いろのくれよん 4'05"
作詞:松本隆、作曲:大瀧詠一

風をあつめて 3'50"
作詞:松本隆、作曲:細野晴臣

暗闇坂むささび変化 1'51"
作詞:松本隆、作曲:細野晴臣
原題は「ももんが」。暗闇坂は麻布にある坂であり、松本氏の東京へのノスタルジアを端的に現した曲である。

はいからはくち 2'58"
作詞:松本隆、作曲:大瀧詠一
シングル「12月の雨の日」のB面にも収録されているが、このLPバージョンとは異なるバージョンである。 
はいから・びゅーちふる 38"
作詞・作曲:多羅尾伴内

B-街
夏なんです 3'11"
作詞:松本隆、作曲:細野晴臣
後にシングル「花いちもんめ」のB面としてシングル・カット。

花いちもんめ 4'09"
作詞:松本隆、作曲:鈴木茂
細野・大瀧からの作曲要請を受けた鈴木のデビュー作。後にシングル・カット。

あしたてんきになあれ 2'11"
作詞:松本隆、作曲:細野晴臣
1999年にシングル・カット。

颱風 6'26"
作詞・作曲:大瀧詠一

春らんまん 2'32"
作詞:松本隆、作曲:大瀧詠一

愛餓を 39"
作詞:松本隆、作曲:大瀧詠一


このアルバム、①「抱きしめたい」、②「空いろのくれよん」と最初の2曲からインパクトありますね。

共に大滝氏のペンによる楽曲ですが、「抱きしめたい」はちょっとヘビーな、重々しいリズム(特に細野氏の飛び回るようなベースラインが素敵です)にロックを感じるし、エンディング近くの「シュッ」という口で鳴らす効果音はビートルズの「Come Together」そのもの。


そういった意味では「Come Together」的なグルーヴ感が・・・。


そして「空いろのくれよん」では一転、フォーキーでスティールギターがカントリーフレイヴァーを感じさせます。


はっぴいえんどって音楽的にも非常に懐の深いバンドであったことが、この2曲を聴いただけでよく分かると思います。


そして強烈なパンチが・・・。


③「風をあつめて」。


やっぱり月並みですが、この曲、細野氏が提供するこの曲はロック史上に残る名曲ですね。


松本氏の詞の世界観が、この曲ではフルに発揮されてます。


細野氏が松本氏に詞を書かせた・・・といった趣旨の発言がありましたが、いろいろな意味ではっぴいえんどというバンドは大滝氏と鬼才、細野氏の個性がぶつかりあったバンドだったんだなあと感じてます。


仕事帰りの疲れきった帰り道にこの「風をあつめて」は聴くと、実に体に浸透していきます。

じんわりと心に響いてくるんですよね。

アコギとハモンドオルガンの音が心地よく、また細野氏の朴訥としたヴォーカルがやっぱりいい。


ちなみにふざけたようなタイトルの④「暗闇坂むささび変化」も細野氏の作品。

歌詞にでてくる「ももんが」が妙に印象的。暗闇坂って、実際に麻布にある坂の名前です。


名前の由来は、昼間でも暗いほど鬱蒼と樹木が茂り、狭い坂道に覆いかぶさっていたからといわれています。

暗く見通しの悪い急な坂道のためか、妖怪、幽霊が出没するなどといった伝説が生み出されました。

実際に追い剥ぎなどが現われる物騒なところであり、同様な命名として幽霊坂という坂も多いらしい。


もうひとつの細野氏の代表曲が⑦「夏なんです」。これまた、です、ます口調の松本氏の作風を象徴したような歌詞が素晴らしい。


そしてジェームス・テイラーに影響を受けた細野氏が、もろにJT、ならびにセクションを模倣したような演奏スタイルが、歌詞とマッチし、実にオリジナリティを感じさせます。


本作には鈴木氏が楽曲を提供していますが、堂々と輝くように収録されてます。


それが⑧「花いちもんめ」。
後に鈴木氏はリトルフィートの面々とソロアルバムを制作するわけですが、この楽曲にはその片鱗が窺えます。


聴き方によってはスワンプ的なグルーヴを感じさせる壮大なイメージのロックですね。


大滝氏の楽曲にも言及しないといけませんね(笑)。


ちょっと地味ですが⑩「颱風」っていう曲が、実にスリリングな演奏なんです。

ブルージーで、また歌詞(これは大滝氏の作詞)が大滝氏らしくユニーク。

タイトル通り「台風」を歌ったものなんですが、一旦曲が終わったと思ったら、「台風来るよ~、また来るよ、ほら、キター」っていう台詞と共に松本氏の重たいドラム・・・、また演奏が始まるところが、堪らなく好きですね~。



う~ん、やっぱり名盤らしい名盤なんですよね。日本のロックを切り開いた素晴らしい作品。


はっぴいえんど


メンバー
細野晴臣(ボーカル・ベース・ギター・キーボード)
大瀧詠一(ボーカル・ギター)
松本隆(ドラムス・パーカッション)
鈴木茂(ギター・ボーカル)

はっぴいえんど(HAPPY END)は、1969年から1972年まで活動した日本のバンド。


バンドの作詞担当だった松本氏が、ダブルミーニングなどの技法を積極的に歌詞に取り入れ、日本語ロックと呼ばれた独特の世界を構築した。

ダブルミーニング・・・2つ以上の解釈が可能な意味づけで、詩なとで一つの語に2つ以上の意味をもたせること。

松本氏は後年、ジャックスの楽曲「からっぽの世界」の歌詞に影響を受けたことを公言し、この曲がなければはっぴいえんどはなかったかもしれないという趣旨の発言をしています。


大瀧と細野は音楽性を重視していたため、ロックに日本語の歌詞をつけるこの提案に反対した。


またサウンド面においてはアメリカのバッファロー・スプリングフィールドや、モビー・グレープに影響された先進的な音であった。


メンバーは宮沢賢治に影響を受けており、その世界観が音楽性にも影響しているらしい。


しかし、ブリティッシュロックの人気が絶頂期を迎えつつあった当時の日本において、これらのバンドはほぼ無名であったにも拘らず、このような音楽性を標榜したのは、ブリティッシュロックはアメリカのロックをコピーして生まれたイギリスオリジナルの音楽であるため、日本のロックを作るためにはアメリカのロックをやらなければならないという考えがあったから。


はっぴいえんどがとった方向性は後続のバンドに少なからぬ影響を与えた。





細野晴臣
1947年(昭和22年)、東京都港区生まれ。


特に裕福ではないが、厳しい環境でもなく自由な少年時代を過ごした。

母方の祖父である中谷孝男はピアノ調律師、叔母が外資系の映画会社勤務という環境から、幼い頃からポピュラー音楽に親しんだ。


中学時代にロックに興味を持ち、15歳あたりからギターを手に友人とバンドを組む。

漫画家を志したこともあるが、立教高等学校(現・立教新座高等学校)、立教大学の同級生だった西岸良平の才能に感服し、漫画家を諦め音楽の道を進むことを決意する。


高校時代からフォークの洗礼を受け、ボーカルにも挑戦し始める。この頃、ボブ・ディランに大きな影響を受けた。


立教大学在学中にベースを始め、数多くのバンドを経た1969年、エイプリル・フールのベーシストとしてメジャーデビュー。

その後、大瀧詠一、松本隆、鈴木茂とはっぴいえんどを結成し、日本語ロックの礎を築く(本人は当初、日本語ロックの礎を築くことに反対していたという)。


1973年のはっぴいえんど解散後、ソロ活動と平行して鈴木茂、林立夫、松任谷正隆とキャラメル・ママ(のちにティン・パン・アレーと改名)を結成。


演奏・プロデュースチームとして多数のアーティストの楽曲に参加、荒井由実などのプロデュースも行う。


細野晴臣の祖父である細野正文は、日本人で唯一豪華客船タイタニック号に乗船し、事故から生還した人物である。







鈴木  茂
(1951年12月20日 - )


日本のギタリスト・作曲家・編曲家である。はっぴいえんど、ティン・パン・アレーなどのメンバーとしてギターを担当した。


1968年、林立夫、小原礼らとともにスカイを結成。


1969年に細野晴臣に誘われはっぴいえんどに加入しギターを担当、「花いちもんめ」などの楽曲ではボーカルを務め、バンドの解散後に細野らとキャラメル・ママを結成、ティン・パン・アレーへと発展させる。

1975年にはアメリカのミュージシャンを起用しロサンゼルスで録音した初めてのソロアルバム『BAND WAGON』を発表。

帰国後、ハックルバックを結成し「ベイ・エリア・コンサート」やライブハウス、学園祭に出演。

『ほうろう』を発表したばかりの小坂忠のバックをティン・パン・アレーのメンバーとして務め全国ツアーも行った。1992年には尾崎亜美、小原礼らとともに桃姫BANDを結成。


前回も書きましたが、映画監督山崎 貴が鈴木の実家(鈴木モータース)近くに住んでいたこともあり、鈴木オートのモデル(子供が鈴木 茂らしい)




大瀧詠一

本名:大瀧 榮一
(1948年7月28日 - 2013年12月30日)


岩手県江刺郡梁川村(後の江刺市、現:奥州市江刺区)生まれ。

母子家庭で育ち、母親が教師だったため、小学校・中学校でそれぞれ転校を経験している(小学校で江刺から遠野。中学で遠野から釜石)。

1967年、上京し、小岩の製鉄会社に就職するも、出社約20日、在籍期間3ヶ月で退職。

その数日前、船橋ヘルスセンターで会社の慰安会があり、余興でビートルズの「ガール」をアカペラで歌ったところ、上司から「うん、キミはこういう所にいるべき人間ではない」と諭されたという

2013年12月30日17時30分頃、東京都西多摩郡瑞穂町の自宅で家族と夕食後のデザートに林檎を食べている時に倒れ、救急搬送された。

警視庁福生警察署などによると、家族は「林檎を食べていてのどに詰まらせた」と説明していたという。

救急隊がかけつけた時は既に心肺停止状態であり、病院に搬送後19時頃に死亡が確認された。

死因は解離性動脈瘤とされた(報道では発症部位など詳細については発表されていない)。65歳没。



(シリア・ポール☆大瀧詠一)





松本隆
(1949年7月16日 - )


日本の作詞家である。ロックバンド「はっぴいえんど」の元ドラマー。

東京都出身。港区立青南小学校、慶應義塾中等部、慶應義塾高等学校卒業。慶應義塾大学商学部中退。慶應義塾大学特選塾員。

東京都港区の青山生まれ。父は大蔵省の官僚。中学校から大学まで慶應に通った。

生まれ育った青山を基点として、多感な時期に多くの時間を過ごした乃木坂や麻布、六本木や渋谷界隈の範囲を「風街」と呼び、心の拠り所として愛している、現在は住まいを神戸、仕事場は京都。


音楽的にはビートルズの影響を強く受けたと語っている。また、妹が生まれつき病弱で早くに亡くなっており、そのことが詞が優しいといわれる理由ではないかと自ら語っている。


2015年8月21日・22日、『松本隆 作詞家活動四十五周年記念オフィシャル・プロジェクト』の集大成ともいえる『風街レジェンド2015』と冠したライブを東京国際フォーラムにおいて行った。

松本氏が作詞を提供したアーティストが数多く出演。松本自身も、はっぴいえんどのドラマーとしてステージに立った。両日とも公演予定時間は3時間30分以上に及ぶものであった。



(24:42)

(53:48)









テレビ放送を見逃した方


いつも暖かいイイねを頂き感謝してます

2015年も今日で終わりを告げます、皆様方にとって良い年を迎えられます様に☆_

今日も読んで頂きありがとう♪

おしまい( ^-^)ノ∠※。.:*:・'°☆