日頃スポーツや音楽といったジャンルで仕事をしていると、世の中の(政治や経済の)動向とは無縁であるかのような錯覚にとらわれることがある。
が、実際は断じてそうではなく、世界中に軍事基地を配したアメリカが、スポーツや音楽文化の情報配信をすることによって、基地のある国民に帝国の一員であることを無意識のうちに認識させているように、ヒトラーによるナチ・オリンピックの時代と同様、現在もスポーツや音楽は、国際政治国際経済のなかで存在している。
一方スポーツや音楽は、(ここでは詳しく述べることはできないが)ヒトラーもかつての日本軍国主義政府も最終的にそれらを意のままに支配することができなかったように、それらの文化自身のなかに、反戦・平和・人権擁護の思想とメッセージがアプリオリに内在していることも事実である。
そんななかで、日本社会独自の文化のあり方を模索し、構築する作業は、美しく豊かな社会を築くうえで極めて重要な作業であるはずなのだが、もちろん今回の参院選でもそのような文化政策が争点になることはなく、何人か立候補したスポーツ関係者も、あたかもスポーツと政治が乖離したものであるかのごとく、スポーツを語らず政局の渦のなかへ巻き込まれていった。
手段の目的化…と言ってしまえばそれまでだが、選挙の結果が政治の変化として語られる以上に政局の変化として騒がれるなかで、今回参院に当選した議員たちが、近頃なぜかムードとして胚胎している「憲法改正」の動きに対して、どのような姿勢と意見を打ち出すのか、注目したい。そのときこそ、日本社会独自のスポーツ文化や音楽文化が豊かに花開くための選択が、その理由とともに求められるに違いないのだから。