ご訪問いただきありがとうございます。

 

 

 

 

 

私は学生時代に学習塾の講師の経験があり、

その後公立小学校で10年間勤めてきました。

 

 

 

 

双方とも退職し、少々ブランクはあるものの、

2人の子どもを持つ親として

これら教育機関に対してどう考えるか、

かなり偏った考えを述べていきたいと思います。

 

 

 

 

まず学校ですが、その機能は学習という目的から

どんどん逸脱したものになっています。

それはコロナ後、急速に加速していると見ています。

 

 

 

 

どういうことかというと、

自発的にどうしても学校で学習したい子を除き、

学校はいわば「義務教育」という衣を着た

託児所と変わらない機関になり果てています。

 

 

 

 

 

 

ほとんどの親世代はこう思うのではないでしょうか。

「学校に行っていないと、みんなと同じようにできない」

あるいは

「自分が身につけてきたものは学校に行かないと身につかない」

と。

 

 

 

 

確かに私自身も自分と同じ経験をさせたい欲がありました。

それが子どもにとっての幸せにつながっていくのではないか、と。

しかしその経験をしたのは数十年前の話です。

 

 

 

 

数十年も経っているのだから、

私たちと同じ経験を子どもたちがしていること自体、

相当時代遅れだと思いませんか?

 

 

 

 

学校行事、修学旅行、通学の有無、

これらは私たちが思い出補正で「良かった」と

思い込んでしまっているものです。

 

 

 

これらが本当に今の子どもたちに必要なものなのか?

ということは、私たちが考えるのではなく、

未来を生きていく子どもたちが真剣に考えていかなければいけません。

 

 

 

 

 

本来、こういった新しい習慣を生み出す場が

学校であれば、と私も思うのですが、

学校というのは、想像以上に

伝統や慣例を重視するもので、

前の年と同じことの繰り返しを極端に好みます。

 

 

 

 

 

結果、子どもたちの実態とのズレが生じ続け、

集団に不適合な子どもたちが年々増えています。

また、保護者達も子どもたちに

親世代と同じ経験を強要しようとしています。

 

 

 

 

 

結果、子どもたちが自分たちの場を作ることなどできず、

自発的に学ぶことを考えることもせず、

ただ教師が文科省の定めたノルマをこなし、

親もそれに安心しきって子どもを預ける機能を持たせた

いわゆる託児所と変わらない現場と化しています。

 

 

 

 

 

 

もちろん全ての場がそうだとは思いません。

一部私も経験上、理想的な場を作る子どもたちの姿を見てきたこともあります。

自分たちで学び、自分たちで場を作っていこうとする姿を。

しかし、こういったエネルギーが必要なことは

諸先輩方に理解してもらうことは難しいものです。

 

 

 

 

文科省は「主体的で対話的、深い学び」を主張していますが、

これは強要している時点で主体的ではなく、

そもそも学校に来ることを義務化している時点で

主体性を求めることからズレていることに気づくことができません。

 

 

 

 

そして、「深い学び」には

様々な経験との結びつけが必要です。

そういった場を提供していくには、

授業時数のカウントが重すぎるのです。

 

 

 

 

 

実態をつかもうとしない文科省が作り出した、

もやもやした目標をもとに作り出した指導要領を、

教職員の方々はほぼノルマとして受け取り、

主体的とはかけ離れた学習状況を提供せざるを得ないばかりか、

保護者もそれぞれに自分の要求を通そうとしています。

 

 

 

 

 

 

これらが一つの方向を向こうとしなければ、

永遠に子どもたちが主体的に深い学びを得ることを

「学校で」することは不可能であると私は考えています。

 

 

 

 

 

一方で学習塾は、保護者の方と子どもたちが、

「塾に行く?」「うん、行く」というやり取りが

100%あった上で行くことになるため、

学校よりもいくらかは主体性のある学びの場と言えます。

 

 

 

 

ただ、あくまでも塾というのは

学校における評価を求めるために行くことがほとんどで、

深い学びを得ることができる場とは

やはり言い切ることができないでしょう。

 

 

 

 

学習塾の目的は

「学校の成績を上げること」にあるわけですから、

当然深く理解することよりも、

どうすれば問題に対応できるか、

という対応力を鍛えることに重点が置かれます。

 

 

 

 

 

 

だから、出てきた問題が

練習してきた問題であれば、対応が可能になりますが、

その問題が求めている力が何か、

本人が深く切り込むことがない限り、

定着した学びになることはないのです。

 

 

 

 

また、これは私が担当したお子さんにありがちなことだったのですが、

塾に来るということにあまり乗り気ではないお子さんもいます。

共働きだったりして、家で学習に集中する環境ができないから、

塾に預けることで、少しでもそういう場を提供する、

というパターンです。

 

 

 

 

こういったお子さんは、

やらない子よりは勉強にかける時間があるので

当然学校の成績は上向いていきます。

しかし、そもそも向上心があるわけではないので、

どこかで頭打ちします。

 

 

 

 

 

学習というのは、本人がどれだけ深く切り込むか、

自分で覚悟を決めて行わない限り、

学力として決して定着もせず、深まることもないものだと、

どこかで気づいていかないと進まないものです。

 

 

 

 

むしろ、その覚悟さえあるのであれば、

学校や塾に行く必要は全くなく、

周りの環境や時間に合わせる必要がない分、

自分のペースで好きな配分で

進めていくことができるのに、と度々思います。

 

 

 

 

 

なぜか、「学校に行く」ことが美徳とされる現代ですが、

私は「学校に行かなくても大丈夫」のほうが

遥かに健全な子どもの姿なんじゃないか、

と思っているのです。

 

 

 

 

今は不登校が社会問題と言われつつあるわけですが、

私が思うに、不登校の子のほうが最先端です。

学校に行くか、行かないか、ではなく、

何を成すか、成さないか、

がこれからを生きる上で大切な力だと思います。

 

 

 

 

それは誰かと同じである必要はなく、

自身の最高到達点さえ超えるものでさえあれば、

私はその子どもは良く成長している、と思います。

 

 

 

 

今は時代とそぐわない、

とんでもな意見だと思われるかもしれませんが、

私は自分の考えが100年後には

スタンダードになっていると確信しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

本日もここまで読んでいただき

ありがとうございました。

 

 

 

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