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もうだいたい出し尽くしたでしょ!感の

出てきた本シリーズ、今回は藤堂高虎さんです。

もしかしたら、次の大河「どうする家康」でも

きっと登場するであろう人気武将です。

 

 

 

 

 

 

この方は主君を何度も変えたことで有名な方ですが、

この時代、自身が出世するために鞍替えすることは

決して珍しい話ではありません。

 

 

 

 

 

 

むしろ、それだけ主君を替えても、

それぞれの信頼を得続けたということは、

とても能力が高かったことの証明ですし、

築城の名手としても、

黒田官兵衛、加藤清正と並び、「築城三名人」と呼ばれています。

 

 

 

 

 

 

 

そんな藤堂高虎さんの肖像画コーナーです。

どん!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

貫禄があることと、目力が強いですよね。

一度目をつけたら、決して逃さないぞ、

というくらいの強さを感じます。

 

 

 

 

 

 

 

でも、リラックスしている様子ではありませんね。

肩肘に力が入っている様子に見えます。

きっと真面目さが出で立ちからも感じられる人柄だったのでしょう。

 

 

 

 

 

 

それでは、こちらも恒例となっております、

ゲーム「戦国無双」でのモデルを見てみましょう。

どん!

 

 

 

 

 

 

 

若いイケメンです。

ちょっと人を寄せ付けなさそうな冷たさも感じます。

実際ゲーム中はプレイすると氷を発現させて戦います。

 

 

 

 

 

彼は徳川家康・秀忠・家光の将軍三代に仕えていますから、

戦国時代が舞台のゲームでは随分若手の部類に入ります。

 

 

 

 

 

 

 

そんな藤堂高虎がどのように戦国を生き抜いてきたのか、

少し触れてみたいと思います。

 

 

 

 

 

藤堂高虎さんは、1556年近江国(滋賀県)に生まれ、

幼少の頃より人並み外れた体格で、

壮年の乳母の乳では足らず、数人の女性の乳を貰ったそうです。

性格も荒く、3歳の頃には餅を5つ、6つ食べることもざらで、

ケガをしても痛いと言ったことがないと伝わっています。

 

 

 

 

 

兄がいたそうですが、

13歳の頃には兄よりも背が高く、体格も良かったそうで、

兄の戦死後、藤堂家の家督を継ぐことになりました。

 

 

 

 

 

 

そうしてはじめは、近江国の戦国大名・浅井長政に仕えます。

姉川の戦いで初陣を飾り、順調に武功を立ててきたようです。

ところが同僚を勲功を巡る争論の末

切り捨てて逃走したため父・虎高が謹慎となってしまいます。

 

 

 

 

 

 

浅井長政が織田信長に滅ぼされてしまった後は、

浅井氏の旧臣だった阿閉貞征に厚遇されて仕えるが、

同僚の阿閉那多助・広部文平が自分の指示に従わなかったため

殺害し浪人となってしまいます。

 

 

 

 

 

・・・性格の荒さ半端ないですよね。

 

 

 

 

 

その後同じく浅井氏旧臣の磯野員昌の家臣として80石で仕えます。

やがて信長の甥・織田信澄が佐和山城に入るとこれに仕えるのですが、

加恩もなかったので長続きしなかったそうです。

 

 

 

 

 

1576年信長の重臣・羽柴秀吉の弟・羽柴秀長(豊臣秀長)に仕えます。

秀長のもとでは、岩洲城・竹田城攻め、三木合戦、中国攻め、賤ヶ岳の戦いと

数々の転戦を通して、加増を繰り返し、確固たる地位を築いていきます。

 

 

 

 

 

紀州征伐、四国征伐でも功をあげ、ついに1万石の大名となりました。

1586年、関白となった秀吉は、秀吉に謁見するため上洛することになった

徳川家康の屋敷を聚楽第の邸内に作るよう秀長に指示し、

秀長は作事奉行として高虎を指名しました。

 

 

 

 

 

 

高虎は渡された設計図に警備上の難点があるとして、

独断で設計を変更、費用は自分の持ち出しとしました。

 

 

 

 

 

のちに家康に引見され、設計図と違う点を尋ねられると、

「天下の武将である家康様に御不慮があれば、主人である秀長の不行き届き、

 関白秀吉様の面目に関わると存じ、私の一存で変更いたしました。

 御不興であれば、ご容赦なくお手討ちください」

と返したそうです。

 

 

 

 

 

これを聞いた家康は高虎の心遣いに感謝したそうです。

高虎の築城の名手と言われることを裏づけるエピソードと言えますね。

 

 

 

 

 

 

 

秀長が死去すると、甥で養子の羽柴秀保(豊臣秀保)に仕え、

秀保の代わりに朝鮮出兵にも参加しています。

 

 

 

 

 

ところが秀保が早世したため、

出家して高野山に入ってしまうのですが、

その将才を惜しんだ秀吉が召還したため還俗し、

5万石を加増されて

伊予国板島(現在の宇和島市)7万石の大名となるのです。

 

 

 

 

 

秀吉の死去直前からは、徳川家康に接近しています。

高虎は元々家康と親交があり、豊臣氏の家臣団が武断派・文治派に分裂すると、

高虎は徳川家康側につくことになります。

 

 

 

 

 

そんなわけで、関ヶ原の戦いでは東軍として参加し、

本戦では早朝、大谷吉継を相手に戦闘、

その後、山中へ転戦して石田三成と戦ったとされています。

 

 

 

 

 

戦後、軍功の高かった高虎は、

家康からそれまでの宇和島城8万石の安堵の他、

新たに今治城12万石が加増され、

合計20万石となりました。

 

 

 

 

この時、今治城にはそれまでの城建築で主流だった方式ではなく、

新たに層塔型天守を採用しています。

これはとても使いやすさと工期の短縮を実現することができ、

以後、高虎がこの様式を江戸城をはじめとする城郭普請に採用したことで、

高虎の新型天守は近世における天守建築の主流となりました。

 

 

 

 

 

現代風に言うなら、

最新鋭の建築デザイナーだったということでしょう。

 

 

 

 

その後、高虎は徳川家の重臣として仕え、

江戸城改築などにも功を挙げたため、

今治城周辺の越智郡2万石を飛び地とし、伊賀国内10万石、

並びに伊勢安濃郡・一志郡内10万石で計22万石に加増移封され、

津藩主となりました。

 

 

 

 

 

 

 

高虎の凄いところは、立場的には外様大名であったものの、

家康死去の際には枕元に侍ることを許されるほど、

家康から非常に信頼される有能さを発揮していたことでしょう。

 

 

 

 

 

その後、二代将軍秀忠、三代将軍家光に仕えたということは、

前述の通りです。

 

 

 

 

 

 

非常に優秀なデザイナー、世渡り上手な

藤堂高虎さんから学ぶべき生き方のヒントは2つです。

 

 

 

 

 

 

①自らの分析力を高め、それを信じ切る

 

 

 

 

 

徳川家康の屋敷を聚楽第の邸内に作るエピソードでは、

警備に不備がないように、設計図を書き換えました。

 

 

 

 

これは、よほど知識とあらゆるパターンを

予め考えていなければ、できないことでしょう。

 

 

 

 

また、当時のセオリーにとらわれず、

効果がより高いと思われる選択をすることは、

私たちも学ぶべき点だと思いました。

 

 

 

 

②どんな人からも信頼されるような付き合い方

 

 

 

 

 

 

 

高虎は、生涯で何度も主君を替えた武将です。

その中で様々な交友関係を持ち、

そして信頼関係を築いていました。

 

 

 

 

 

二代将軍秀忠がある日開いた夜話会で、

高虎は泰平のときの主の第一の用務は家臣らの器量を見抜き、

適材適所につけて十分に働かせることと述べました。

 

 

 

 

次に人を疑わないことが大切で、

上下の者が互いに疑うようになれば心が離れてしまい、

たとえ天下人であろうと下の者が心服しないようになれば、

肝心のときに事を謀ることもできず、もし悪人の讒言を聞き入れるようなことになれば、

勇者・智者の善人を失うであろうと語っています。

 

 

 

 

 

家康はのちにこの高虎の言葉を聞いて大いに感動したといいます。

 

 

 

 

 

これは人の器量を見抜く力を磨くことと、

人から認めてもらうために常日頃からの言動を気をつけることを

私たちに教えてくれていると感じました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

よろしければ、

過去作品のリンクを貼りつけておりますので、

そちらから過去作品もご覧ください。

 

 

 

本日もここまで読んでいただき

ありがとうございました。

 

 

 

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