真田昌幸~戦国時代を巧みに生き抜き真田家を守った名将 | 戦国武将・幕末志士を偲ぶ
1547年真田幸隆の3男として生まれる。幼名は真田源五郎。
母は河原隆正の妹・恭雲院、又は阿続方という説もある。

この頃、父・真田幸隆は武田晴信(のちの武田信玄)の軍門に入ってまだ数年と考えられ、1545年に旧領に復帰したばかり。信濃先方衆として、戦場では常に最前線で戦っていた。その為、戦功も多く、真田幸隆の活躍が目立つ。
真田源五郎(真田昌幸)は7歳になると、父母の元を離れて1553年、甲斐・甲府へ人質として送られた。
真田本家の跡取りである真田幸隆の嫡男・真田信綱や2男・真田昌輝ではなく、3男を人質としたのは武田晴信の配慮とも言える。
この頃の1553年と言うと、武田晴信は4月に小笠原氏の残党と村上氏の諸城を攻略。村上義清が信濃を追われて上杉へ逃れた。しかし、上杉は和田城主・大井信広を武田から上杉に寝返えさた為、8月1日に武田晴信は大井信広・大井信定が討ち取るなど北信濃の状態が安定せず、信濃衆から人質を取る事に。そして1553年8月10日に真田幸隆から3男・真田源五郎を預かる変わりに秋和の地(上田近郊)350貫を加増し、真田幸隆は約3000貫(約9000石?)にした。9月には川中島に上杉兼信自ら出陣し、武田晴信と対峙している。
前田慶次 晩年など 真田幸村とは
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