淀殿(茶々)が産んだ、拾 (豊臣秀頼) の父親は誰? | 戦国武将・幕末志士を偲ぶ

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 淀殿(茶々)が産んだ、子供である豊臣秀頼の父親は誰なのでしょう?

 状況的には豊臣秀吉が父親である可能性は、大変低いと言わざるを得ません。

 長く一緒に暮らしていた正室・おね(北政所)はもちろん、大阪城には甲斐姫など16人の側室が暮らしていましたが、他の女性は、豊臣秀吉の子供は1人もできませんでした。
 娘も含めて、子供は1人もいないのです。
 ※羽柴秀吉が長浜城主時代に儲けた実子で6歳で夭折したと伝わる石松丸秀勝がいると言う説もありますが、この他には娘も息子はいません。

 京極龍子は、豊臣秀吉の側室になる前に、結婚相手との間に3人の子供をもうけていましたが、豊臣秀吉の子を妊娠することはありませんでした。
 豊臣秀吉が美人の側室を伊達政宗の家臣に与え、最終的に伊達正宗の側室となると、2人の子を生んでいます。

 そんな中、淀殿(茶々)は、1588年頃に豊臣秀吉の側室となり、1589年、23歳の時に捨(鶴松)を産みます。
 しかし、鶴松が1591年に早世すると、1593年、27歳の時に拾(秀頼)を産むのです。
 大変幸運だったのは、この2人の子供がすべて「男子」だったと言う事ですね。

 では、誰が父親なのでしょうか?

 有名な説では大野治長です。

 大野治長の母は、茶々(淀殿)を小さいときから世話をしてきた乳母・小袖(おそで、大野定長の妻・大蔵卿局)です。
 茶々と治長は乳兄弟に当たり、実際に大蔵卿局は茶々から大変信頼され、大阪城で権勢を振るっていました。
 その為、生母・大蔵卿局を通じて、大野治長も度々茶々と顔を合わせる機会はあったものと考えられます。
 徳川家康による大阪夏の陣で豊臣家が敗れ、淀殿・豊臣秀頼が自害する際に、大野治長は母・大蔵卿局と共に殉死しました。

 他の父親説は、無名法師(陰陽師)、名古屋山三郎、石田光成などがあります。

 いずれにせよ、鶴松の時はともかく、秀頼が懐妊・誕生した際には、豊臣秀吉も「不自然」を感じたはずだと小生は思います。

 その為か、朝鮮出兵の文禄の役の和睦され、名護屋城から大阪城に戻った豊臣秀吉は、豊臣秀頼が1593年8月3日に生まれたあとの10月に、大坂城にいた大勢の女房や仏僧を処刑・追放しています。
 太閤・豊臣秀吉は豊臣秀頼に跡を継がせようと考えたのでしょう。
 晩年の豊臣秀吉は自分への裏切り行為を絶対に許しませんので、豊臣秀頼の誕生にまつわる関係者を静粛したのではないかと考えられます。
 しかし、茶々(淀殿)に関しては、織田家の血を継いでおり、更に世継ぎと決めた豊臣秀頼の生母でもあることから、不問としました。
 同じ10月に、豊臣秀頼と関白・豊臣秀次の娘(槿姫とも呼ばれるが不詳)を婚約させ、まだ生まれたばかりの豊臣秀頼へという政権継承を模索開始しました。

 豊臣秀吉は、跡継ぎの事を考えると、豊臣秀次よりも、拾 (豊臣秀頼) の方が、血筋が良いと考えたことでしょう。
 何よりも可愛い茶々(淀殿)が産んだ子を、自分が父親だと認めさえすれば、お市の方と言う織田信長系(織田家系統)の血を継ぐ子が、豊臣家の跡継ぎになります。
 そうなれば、全国の大名はひれ伏し、自分の死後も豊臣家は安泰となるだろうと考えたのではと小生は感じます。

 逆に茶々(淀殿)の立場としてみれば、亡き母(お市の方)や父・浅井長政の血脈を繋ぐためだけでなく、子が天下人となるのであれば、この時代、女性にとってこれ以上の成果はありません。
 ドラマや小説では、その作者の創造で、様々な描かれ方をしていますが、豊臣秀吉は母・お市の方が命を落とした仇です。もっと拡大解釈すれば、浅井家の娘として生まれたのに幸せを妨害したのが豊臣秀吉です。
 そんな一番嫌っておかしくない50歳近い男に、20歳前後の茶々は側室として上がったのです。
 そして、淀殿が「捨」「拾」のふたりの子を産まなければ、ひとりの側室としてしか記録に残らなかったでしょう。
 もちろん、豊臣秀吉を嫌っていた茶々が、考え抜いた末に側室になった事も含めて、大野治長の母・大蔵卿局による入れ知恵だと考えられますが、茶々(淀殿)は豊臣秀吉の権勢を利用して、いずれ天下に号令する子を残す事で、いわゆる「自分が天下を取ったも同然」と言う状況を作り出したかったのだと小生は思います。

 そして、1598年に豊臣秀吉は亡くなり、豊臣家の家督は豊臣秀頼が継ぐのでした。

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引用元:淀殿(茶々)が産んだ、拾 (豊臣秀頼) の父親は誰?