■成田氏の姫「甲斐姫」
水攻めがうまく行かないのを聞いた豊臣秀吉は、忍城に真田昌幸・真田信繁(真田幸村)父子、浅野長政らを援軍に出した。
そして、忍城に武力攻撃をした時のことである。猛攻に城門の一つが突破されそうになると、成田氏長の長女・甲斐姫は、自ら鎧兜を身に付けて出陣し、真田勢の将を討ち取るなど、豊臣勢の侵入を阻止したとされている。
甲斐姫は成田家に伝わる名刀「浪切」と、実母の形見である短刀を持って自ら城を出たとされる。甲斐姫は当時19歳とも・・。
石田三成は、その後も、何度か総攻撃するも、忍城の城内に入ることはできなかったようだ。
籠城戦の途中で城代・成田泰季は病死(又は戦死)し、甲斐姫が指揮を引き継いだとも考えられる。甲斐姫は三宅高繁を討ち取るなど、機に応じて出撃する姫の姿に、城兵は奮い立ったと伝わる。
一方、のぼうの城においては、成田泰季が指揮を取れない事態になった後、成田泰季の子であった成田長親が城代についたとされる。忍城に残る一門衆筆頭と言うことから考えると、成田長親が城代となり篭城を指揮したのは、妥当な説となる。
7月5日、小田原城が開城し、北条氏が豊臣秀吉に降伏した。
この時点で、豊臣勢が城攻めした中で、小田原城開城までに落ちなかった城は、この忍城だけとなっていた。
忍城の篭城兵は、石田三成らの「小田原が開城した」と言う話を信用せず、小田原城開城後も篭城を続けた。
忍城がまだ篭城していると知った成田氏長は、豊臣秀吉の命(又は願い出て)で、忍城に7月15日頃戻り、忍城は開城した。
この際、甲斐姫たちは矛を収め、堂々と城を出たと伝えられ、忍城だけは例外で、籠城兵たちの罪は問われず、財産没収も無かったようだ。
その後、甲斐姫は成田氏長と共に蒲生氏郷に預けられ、岩代福井城に移った。
その時の事である。成田氏長が留守した際に、家臣の浜田将監と弟・浜田十左衛門が謀反を起こし、本丸を占拠し、義母も殺害した。
この謀反を知った甲斐姫は謀反に加担した兵を無双乱舞でふっとばしながら浜田兄弟の元にたどり着いて浜田兄弟を討伐したと言う。
のち、この甲斐姫の武勇伝を聞いた豊臣秀吉は、甲斐姫を大変気に入り「側室」にした。
そのためもあって、成田氏長は1591年に下野国・烏山城主として2万石の大名になる。
甲斐姫は大坂夏の陣による豊臣家滅亡の際、徳川の千姫の擁護もあり、甲斐姫の侍女で豊臣秀頼の側室となっていた小石の方(成田吾兵衛助直の娘)と、その娘・天秀尼(豊臣秀頼の長女)と敵中突破に成功し大阪城を脱出。鎌倉の東慶寺に入って尼になったとされる。
→ 東慶寺の甲斐姫の墓
![]()
![]()
引用元:成田甲斐 甲斐姫
