← 上杉景勝②からの続きです
御館の乱を制した上杉景勝であったが、血で血を洗う内乱によって上杉家は疲弊していた。
上杉謙信時代の国人衆を粛清し、上田長尾系に恩賞を多く配分した為、不満が続出し安田顕元らが非業の死を遂げた。
また、1581年には新発田重家が蘆名盛隆・伊達輝宗に通じて自立。新発田重家の反乱鎮圧には実に7年もの歳月を要した。
そして、織田信長配下の柴田勝家が前田利家や佐々成政らと共に上杉領に侵攻。会津からも蘆名盛隆が侵攻。
1582年には越中への出陣を約束していた武田勝頼も織田勢に攻め込まれ、天目山の戦いで敗れて自害し、上杉家は滅亡の危機を迎えた。
柴田勝家らは越中を完全に制圧(魚津城の戦い)し、魚津城では諸将が壮絶な討死を遂げた。
関東からは滝川一益に圧迫され、全方向を敵に囲まれることになり、窮地に立たされた上杉景勝であったが、1582年6月2日、明智光秀により織田信長が本能寺にて自害(本能寺の変)。
その為、柴田勝家らは撤退し、上杉家は九死に一生を得た。
上杉景勝は新発田重家と放生橋にて戦い、菅名但馬守・水原満家・上野九兵衛ら名のある大将を討ち取られ、安田能元が重傷を負い、上杉景勝は大惨敗を喫する(放生橋の戦い)など、厳しい状況が続いた。
1583年、賤ヶ岳の戦いでは羽柴秀吉より、越中侵攻を命ぜられて協力するなど、羽柴秀吉に接近。以降も羽柴秀吉の命に従っている。
1585年、真田昌幸が上杉景勝を頼ると、人質として差し出された真田幸村を預かっている。
1586年、織田信長の後継者争いを勝ち抜いた羽柴秀吉が、石田三成を通じて上杉景勝に臣従を求めると、上杉景勝は上洛して羽柴秀吉(豊臣秀吉)の傘下に入った。これは諸大名で最も早い臣従と言える。上杉景勝は子・畠山義真を人質として差し出し、このとき上杉景勝は正親町天皇に拝謁して右近衛少将に任じられた。
以降、上杉景勝は豊臣秀吉の支援を受けて、新発田重家を討ち取り、本庄繁長が最上義光と激しい争奪戦をして奪った出羽・庄内地方と、佐渡地方を領有し90万石となった。
1588年にも上洛し、豊臣姓と羽柴の名字を下賜され、6月15日従三位・参議に昇叙された。
1590年には豊臣秀吉の小田原攻めにも、山浦景国が先鋒の北国軍として出兵し、前田利家や真田昌幸らとともに、上野・武蔵の北条方諸城(鉢形城、八王子城など)を攻略した。
1592年、豊臣秀吉の朝鮮出兵では5000を率いて肥前国名護屋に駐屯。
1593年6月6日から9月8日まで、豊臣秀吉の名代として家臣の高梨頼親らと共に朝鮮に渡り、日本軍最前線基地となる熊川に城(倭城)も築城している。
1594年、中納言となり「越後中納言」と称された。
1595年1月には豊臣秀吉より、越後・佐渡の金銀山の支配を任せられている。
同年、豊臣家五大老の1人である小早川隆景が家督を小早川秀秋に譲り隠居したため、空席となった五大老に上杉景勝が任命された。
1598年1、豊臣秀吉は会津城主・蒲生秀行を宇都宮城に移し、上杉景勝を奥州諸大名の抑えとして全国第2位となる120万石に加増移封させた。これにより上杉景勝は「会津中納言」と呼ばれた。
上杉景勝は要となる米沢城に家老・直江兼続を配置。伊達家との最前線・白石城には甘糟景継、福島城は本庄繁長、梁川城は須田長義、東禅寺城には志駄義秀を配置した。
京で浪人していた前田慶次郎も直江兼続の与力として1000石で米沢に入っている。
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引用元:上杉景勝③ いち早く豊臣秀吉に臣従し勢力を拡大