吉田松陰 吉田寅次郎 幕末の偉大な奇人 | 戦国武将・幕末志士を偲ぶ

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 吉田松陰は、1830年(文政13年)8月4日、家禄26石と言う下級武士の長州藩士・杉百合之助の次男として生まれた。母の名は瀧。幼名は杉寅之助(杉虎之助)または杉大次郎。誕生地は長門国萩松本村(現・山口県萩市椿東椎原)。

 吉田松陰の生家は城下町を一望できる通称・団子岩と呼ばれるところにある古い一軒屋で、父・杉百合之助は下級武士ゆえ、農業中心の生活をした貧しい暮らしであったという。
 
 1834年、父の弟・吉田大助の仮養子となった。この吉田家は毛利家の山鹿流兵学師範であり、家禄は約57石であった。
 1835年に吉田大助が亡くなった為、吉田家を継いで、吉田大次郎(6歳)と名乗った。
 父や兄・梅太郎とともに畑仕事に出かけても、作業をしながら四書五経の素読し「文政十年の詔」「神国由来」「頼山陽の詩」などを、父が音読するのを兄弟が復唱したと言う。夜も仕事しながら兄弟は本を読んだと言う。
 1840年、11歳の時には藩主・毛利慶親への御前にて「武教全書」戦法篇を講義し、見事な披露を行うと、その日から「松本村に天才あり」と吉田大次郎(吉田松陰)の名は萩城下に知れ渡った。そして、早くも才能が認められ藩校明倫館の兵学教授として出仕するようになる。
 1842年、叔父の玉木文之進が自宅にて私塾「松下村塾」を開くと、通って勉学に励んだ。
 1845年、山田亦介(村田清風の甥)から長沼流兵学を学んだ。また、山田宇衛門から世界地図「坤輿図識(こんよずしき)」を贈られる。
 1847年、林真人より、山鹿流兵学の免許を受ける。
 1848年、僅か19歳にして、藩校・明倫館の独立師範(兵学教授)となった。
 1849年、御手当御用内掛(海防掛)に任命され、藩内の日本海沿岸の防備を調査した。
 1850年、10ヶ月間の許可を得て九州遊学のため萩を出発。長崎、平戸、熊本を訪れ、山鹿流兵学者の山鹿万介や葉山左内から学んだ。また肥後熊本で、宮部鼎蔵と会談すると国の防衛などで意気投合し、生涯の親友となった。
 1851年、平戸藩主の参勤交代に従い江戸へ出て、西洋兵学者・佐久間象山から砲術と蘭学を学んだ。また、鎌倉の伯父の僧・竹院を瑞泉寺に訪ねている。
 その後、会津藩など東北地方へ遊学する際、通行手形の発行が遅れたため、宮部鼎蔵らとの約束を守る為に通行手形無しで他藩に赴く形となり、脱藩行為を行った。水戸では、会沢正志斎を訪ねている。

 1852年、東北では会津藩の藩校・日新館を訪れるなど、福島、新潟、佐渡、青森、岩手、宮城、栃木を巡り、江戸に戻った。しかし、脱藩の罪を問われ長州藩より帰国命令が出されると、萩に帰ると杉家にて謹慎。
 その後、脱藩の罪により藩士の身分をはく奪され、実父である杉百合之助の援助を受けた。

 1853年、藩に諸国遊学願を提出すると、才を惜しんだ藩主が認めて、10年間の国内遊学許可が下り、江戸に赴いた。6月に、日米和親条約締結の為に来航したアメリカ合衆国の東インド艦隊であるペリー艦隊を見に浦賀まで行った。(黒船来航)
 軍艦を見て衝撃を受けると、西洋列強からの国防意識を強く抱き、西洋先進国を知るために外国留学の意志を固め、金子重之輔(金子重輔)と長崎に寄港していたロシア帝国の軍艦に乗り込もうとするが、長崎に到着する前にプチャーチン率いるロシア艦隊は長崎を去り失敗し江戸に戻った。
 1854年、ペリー艦隊が日本に再航すると、長州藩足軽・金子重之輔と2人で、停泊先の伊豆下田に向かい、密航の機会を伺った。
 その滞在中、皮膚病を患っていた吉田松陰は蓮台寺温泉にも入浴している。
 ある夜、伊豆下田港に停泊中のポーハタン号へ小舟で近づき、主席通訳官ウィリアムスと漢文で筆談して、アメリカ渡航の希望を伝えた。しかし、アメリカと日本は条約を結んだばかりで、お互いの法律を守る義務があり、密航は拒否されてしまう。

 ペリー提督の航海記には下記のように記されている。
「厳しい国法を犯し知識を得るために命をかけた2人の教養ある日本人の激しい知識欲は興味深い。この不幸な2人の行動は日本人に特有なものと信じる。日本人の激しい好奇心をこれ程現すものは他にない。日本人のこの特質を見れば、興味あるこの国の将来には、何と夢に満ちた広野が、何と希望に満ちた期待が開けていることか! 」

 2人は、乗り捨てた小舟が幕府に発見される事を予測して、その前に幕府に自首し、下田で取り調べを受けたあと、江戸の小伝馬町の牢屋敷に送還された。
 その後、老中・ 阿部正弘の助命もあり、長州藩へ護送され吉田松陰は野山獄に、金子重之輔は岩倉獄へ投獄された。
 野山獄では、後に松下村塾の教授となる富永有隣と出会っている。また、玉木文之進に宛てて軍艦建造の必要性を説き、野山獄で「孟子」の講義を始めた。

 1855年、金子重之輔(金子重輔)が劣悪な環境の岩倉獄で病死(享年25)。一方、吉田松陰は1年2ヶ月で出獄を許され、生家・杉家にて預かりの身となるが、家族の薦めにより親族・近隣の者を相手に「孟子」の講義を行う。単なる解説ではなく、吉田松陰独自の解釈が高い評判となり、次第に萩城下に広がって行った。
 1856年、叔父の玉木文之進が開いていた私塾・松下村塾き、近所で塾を営む久保五郎左衛門が名前を引き継いでいたが、吉田松陰が引き受けて主宰者となり、高杉晋作を始め、松下村塾の三無生(増野徳民、吉田稔麿、松浦松洞)など幕末維新の指導者となる人材を多く教育した。吉田松陰の教えは甘えや妥協を許さない、極めて厳格なものだったという。
 1857年、野山獄で出会った富永有隣を松下村塾の教授として招き、この年、高杉晋作が松下村塾の塾生となった。受講者が増えたため11月には納屋を改修して塾舎とし、吉田松陰主宰の松下村塾を開き、武士・農民関係なく塾生を受け入れた。
 講義は室内だけでなく、農作業を共にしながら行なわれるなど、心身両面の鍛錬に重点が置かれたという。
 久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿、入江九一、伊藤博文、山県有朋、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義、野村靖など、後に京都で志士として活動する者や、明治維新で新政府に関わる者などが教育を受けた。

 そんな中、妹の杉文は、久坂玄瑞と結婚。

 1858年、江戸幕府が勅許なく日米修好通商条約を結ぶと激しくこれを非難。朝廷を厳しく取り締まろうとした老中・間部詮勝の暗殺を企てたのを知った長州藩は、吉田松陰を再び野山獄へ投獄し、松下村塾は閉鎖された。
 また、老中・間部詮勝要撃計画の中止を求める高杉晋作達からの手紙を受け取っている。

 1859年、老中・間部詮勝要撃計画に反対した江戸にいる塾生に批判の返書を書き、牢獄内で憤激の絶食を始めたが、その後、家族の説得で絶食は中止している。

 吉田松陰の計画(伏見要駕策)が、安政の大獄で獄死した梅田雲浜より漏れ、計画に協力した門下生・入江杉蔵(入江九一)が岩倉獄へ投獄された。
 京で計画を実行できなくなった入江杉蔵の弟・野村和作も自首し、萩に護送され、岩倉獄へ投獄されている。
 吉田松陰の思想は過激化し、幕府も藩の武士たちもあてにはならないとする、草莽崛起(そうもうくっき)を唱えた。

 江戸幕府より吉田松陰の江戸送致命令が届き、世だ松陰との別れを惜しむ多数の塾生や友人たちの訪問を受けている。
 久坂玄瑞の提案で、松浦松洞が吉田松陰の肖像画を描き、自ら賛(画添える文)を書いた。
 江戸送致の前日、自宅に戻って家族に別れを告げると、5月25日、野山獄から護送用の籠に入れられ江戸向けて萩を発ち、再び故郷の地を踏むことはなかった。

 約1ヶ月後に江戸に到着すると、長州藩・桜田藩邸の牢屋に入れられたのち、評定所から呼び出されて伝馬町の牢獄へ投獄された。
 評定所から3度の取り調べを受けているが、老中暗殺計画を自供して自らの思想を大いに語ったとされる。
 10月20日には「永訣の書」「諸友に語ぐる書」を書き、10月25日には「留魂録」を書き始め、26日書き終えた。

 10月27日朝、死罪を申し渡され、同日の午前10時に伝馬町の獄において、首切り役の山田浅右衛門により斬首刑に処された、享年30(満29歳没)。

 安政の大獄の最後の犠牲者となった吉田松陰の遺骸は、現在、東京・世田谷にある松陰神社に葬られている。

 吉田松陰の死を知った高杉晋作は、倒幕に向かって突き進むこととなる。

 吉田松陰は学問を「人間とは何かを学ぶことである」と言った。また「学者になってはいけない。 実行しなければならない」とも言い、学んだことを活かし実行に移す大切さを強く説いた。


 (参考) 吉田松陰.com、ウキィペディア

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