11月19日O.A.テレビ東京「ありえへん∞世界」“99%行かない!?世界の秘境SP”を見て | 世日クラブじょーほー局

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 ウズベキスタン共和国。中央アジアの小国で、旧ソ連に属し、ソ連崩壊後は独立を果たすも、国際社会で目立った存在でもなく、日本からは直線距離で6000キロも離れているということで、まさに“99%行かない”はずの、日本人とは縁遠い国と思いきや、同国はなんと、”超”親日国家。一体なぜなのか?そこには、「涙なくして語れない日本人たちの感動の実話があった」という。

 同国の首都タシュケントにある「ナヴォイ劇場」は、1947年に完成して今に残るが、その建設には、500人にのぼる日本人が携わっていた。敗戦後、ソ連に抑留され、ウズベキスタンの地には、2万5千人もの日本人が捕虜として連行され、強制労働を課せられたのだ。そこはマイナス30℃を下回る極寒の地であり、劣悪な労働環境の中で、日本人たちはさらに飢えとの闘いを強いられた。しかし彼らは、文字どおり強制労働を強いられたのにもかかわらず、一切手を抜くことなく仕事を全うしたのだった。

 彼ら日本人捕虜たちは、仕事場に行くのに下駄を履いていたそうだが、毎朝決まった時間に下駄を鳴らす音で、その街の人々は目を覚ましたのだそうだ。時間をしっかり守ることからはじまり、彼らの真面目さにいつしか現地の人々は心を動かされていった。飢えに苦しむ日本人捕虜たちに、僅かなすきを見て食べ物を差し入れるようになっていった。しかし、建設作業にあたった日本人のうち、79人が無念にも命を落としたそうだ。

 彼ら日本人捕虜たちの合言葉は「もう一度桜を見よう」だった。彼らが祖国への帰還を夢みて歯を食いしばって作業に取り組んだ結果、3年はかかるだろうと思われていた劇場建設は、2年足らずで完成をみた。与えられた仕事をこなせばいいだけのはずの強制労働にもかかわらず、彼らは細部の彫刻にいたるまで、手のこんだ造りにするなどそこには日本人の誇りが込められていた。

 そして時は流れ、「ナヴォイ劇場」が完成して20年後の1966年、同地を大地震が襲った。7~800棟もの建物が倒壊する未曾有の大災害だったが、ナヴォイ劇場は無傷で残り、市民たちの避難所となって、多くのウズベク人の命を救ったのだった。

 1996年、同国のカリモフ大統領は、ナヴォイ劇場建設に関わった日本人を讃えるプレートを設置。そこには、「極東から強制移送された数百名の日本人が、このアリシェル・ナヴォイー名称劇場の建設に参加し、その完成に貢献した」とこのまま日本語で書かれている(現地語とともに)。

 カリモフ大統領は、このプレート作製にあたってこう指示したそうだ。「彼らは恩人だ。間違っても“捕虜”と書くんじゃない」と。建設作業中に命を落とした日本人たちは、ここウズベキスタンの地で手厚く葬られている。その墓地の周りには桜が植えられ、毎年春には満開の花を咲かせているのだそうだ。今に至るも現地の人たちは、わが子に「日本人のように真面目な子になりなさい」と教えているとのことだ。

 実はこの史実は、以前の世日クラブ講演会で、櫻井よしこ女史が紹介してくれていて、(多分、竹田恒泰氏の講演からの引用だったと記憶)今回、映像とともにあらためて自分の心に迫ってきて、感動ひとしおだった。
 
 ゲスト出演したタレントたちも一様に、理不尽な苦労を強いられたことへの憤りと、そういう逆境にあってなお、日本人としての誇りをもって働き、こんにち日本から遠く離れたウズベキスタンとの信頼を築いてくれたわが先輩たちへの敬意と感謝を述べていたが、これは全く同感。

 これが仕掛けられたプロパガンダのはずはなく、日本人は戦前戦中を問わず、かようなメンタリティを保ち続け、そこかしこにその足跡を残しているのだ。むろん、おろかな日本人がいたことも事実だが…。納得いかなかったのは、ゲストからのソ連への非難がなかったこと。ソ連による日本人将兵のシベリア抑留は、一説に100万人ともいわれる。またなぜこのような逸話を教科書に載せて、日本の子どもたちに教えないのか?ま、これまでは出来ぬ相談なのだろう。しかしこれからは自虐史観への倍返しがあってもいいはず。

 さて、戦後70年にもなろうかというこんにち、先の大戦における「光と影」の「影」の部分をことさらフレームアップして騒ぎ立て、これまでもこれからも永遠にウダウダぬかす近隣諸国はほっぽっとけばいい。ウズベクに限らず、親日国家は多数ある。

 ともかくも、自らの命を削り、日本人の誇りと国家の名誉をこんにちに伝えた先輩同胞たちに恥じぬよう懸命に、感謝してこれから生きていかねばならないと痛感させられた。

(ナヴォイ劇場/月刊ビューポイント2014年7月号より転載)