エフエム新津では歴史好きというよりも野球好きで通していたと思います。

 

パ・リーグ好きで売っていたということもありますが、アナウンサーとして話をしやすかったという実利の面もありました。なにせ毎日、試合を通じて話題を提供してくれるわけですから、話し手としてはありがたかったんです。

 

話は変わりますが、アナウンサー試験の一つの実技の中で、「フリートーク」というものがあります。これは1分とか2分とか時間が与えられ、その中で自由に喋ることです。ただし、時間を超えることは×です。余らせすぎても×です。

いうなれば、時間間隔ととっさの対応力を問われるものです。

考える時間が与えられる場合もありますが、テーマが決められてからすぐに話し始めないといけない場合もあります。

 

この時、「このネタだったら何時間でも話せる」という得意分野があれば、けっこう助けになるんですね。話しながら考えることができますし、今日新聞で〇〇選手が活躍したというような話題を話しているうちに、話の展開を考えられるんですね。

 

で、この得意ネタとして私は野球と歴史がありました。そして、常に新鮮な話題を出せる野球は重宝したんです。無論、上洛理由の一つが、「オリックスブルーウェーブを本拠地で思う存分にみたい」という人間ですから、非常に好きな競技であることが大前提なわけですが。

 

そうしたイメージがついた私を起用してくださった番組がありました。

「CHAT スポーツパブ マンスポ」という番組でした。

龍ちゃん 淳ちゃん わたし(みすたあ)という3人が、夜な夜なパブに集まってスポーツ談義をする」という内容でした。

 

当時聞いていた方に直接伺ったことはないのでわかりませんが、私の中ではひじょうに息が合った人選で、とても楽しいものでした。特に龍ちゃんが収集したスポーツ情報には大変お世話になりました。

 

この番組を通じて、大きなスポーツニュースから地域のスポーツ情報まで話していきました。

1時間だったこの番組ですが、基本月曜日、その日に収録でした。しかも、その日は私は朝5時半には会社に入ります。そして、当時の午後に収録というなかなかハードは一日にはなるんですが、それを補っても余りある楽しさを感じていた番組でした。

 

私が新潟にやってきて、エフエム新津時代の人に挨拶に伺った人はこの龍ちゃんでした。

一度、当時の担当Dも務めて頂いたTさんも交えて、飲んだこともありました。

もちろん他の方とお会いして、挨拶を交わしていますよ。なかなかできない方もいらっしゃいまして、心残りはまだあるのですが。

しかしこうして今でも旧交を温められる人がいるということで、この時期は宝であったなと思います。

 

でも、あなたは「なんで辞めてしまったんだろうね」と思うかも知れません。

そうしたことはおいおい書いていきますが、あと少し新津時代のことを書いていきたいと思います。

 

藤堂高虎は8回も主君変えたといいます。ただ、最も心寄せたのは、羽柴秀長だったと言われています。