大学院修士課程の年に受けたアナウンサー受験ですが、いいところまで残るものの合格はもらえずに終わりました。

 

周囲や肉親からは「もうやめて、埼玉に帰ったら」ということを言われます。

まあ、当然ですね。私が親で、子どもが同じ状況だったら同じことを言うと思います。

 

けれど、私はその道を選ばず、アルバイトしながらアナウンサーをめざすことを決めました。

 

複数の会社で最終試験まで残るのは、脈ありだということがわかっていました。

アナウンサー試験はその受験性の数に圧倒されて、難関だと思われがちです。

まあ、確かに東京キー局 大阪・名古屋・福岡などの準キー局などの会社でも1人からせいぜい4人くらいまでしか入りません。

そこに多いと1万人とかの志願者が殺到します。確かに厳しいです。

 

しかし、それはキー局 準キー局までです。地方局になると、志願者の数がめっきり減ります。

地方局を受けてまでアナウンサーになろうという人も減るんですね。

 

その中でもコンスタントに最終試験に残る力を有する人はさらに限られます。その結果、最終試験を受けに行くと、いつものメンバーで顔見知りだらけという状況になるんです。

 

私もここまでいってましたから、あと少しという想いがありました。

それに、アナウンサー試験に合格してから生田教室を出たかったという想いもありました。

ただ、あまりずるずるといってもいけないので、あと1年という年限をきりました。

 

それでも、早めに結果が出ないのが私らしいといえば私らしいのですが、秋口くらいまで決まりませんでした。理由としては、やはり既卒になると受けられる局がめっきり少なくなるということもありました。ただ、それもいいわけです。全く受けられなかったわけではないので、そこで決められればよいだけの話です。それができていない己の不甲斐なさを呪うしかありません。

 

生田教室を継いだ石川先生や濱野先生に時には励まされ、時には叱咤されながら日々過ごしておりました。

 

そこで、ふと約2年前に受験を通じて知り合いになった人を思い出しました。

ある局でアナウンサーになったと聞いてましたので、その局のホームページを見てみました。

しかし、名前がないのです。

――あれ、ここじゃなかったのかな――

そう思っていたら、その局のホームページにアナウンサー募集のお知らせが出ていたのです。

それが、エフエム新津というコミュニティエフエム局でした。受験資格は満たしています。私は迷わず、エントリーシートを送りました。

 

それが9月くらいでしたか。10月ころに試験を受けるために、大阪から夜行に乗って、新津に着きました。そして、新津に泊まって、翌日の試験を受けることにしたのです。

 

試験内容は、ニュース原稿とCM原稿の読み、DJやフリートークの試験、そして面接でした。

この内容ですが、もうあまり覚えていません。ただ、面接の際に新津を歩いた際に感じた話などしました。雑談のような雰囲気で終わったように思います。

 

そして結果は、「入るなら合格出すからできるだけ早く意思を表明せよ」とのことでした。

こうしてエフエム新津に入社することになったのです。

私は、こうして思わぬ長居をすることになってしまった生田教室を卒業することになりました。

今でも私のようなものをアナウンサーにまで仕立ててくれた生田先生や石川先生、濱野先生に感謝の言葉もありません。

後から聞いた話なんですが、先に勤めていた知り合いが他局に移籍したので、その後任の募集が出たということでした。

もしあの時、その知り合いが気にならなかったら、きっと募集なんて目に入らなかっただろうと思います。何とも不思議な縁で、私はエフエム新津に入社することになり、新潟・新津に住むことになったのです。

次はエフエム新津時代のことを書いていきます。

新津といったら、やはりここかな、ということでこの写真で。ちなみにエフエム新津は資料館と同じ敷地にあります。