先回お話ししたアナウンサー受験者のスクール「生田教室」に入室してしまったんです。

ええ、正しく「してしまった」という表現が正しい場所でした。

 

もうね、厳しいんです。

普通、原稿読みなどが上手くならなかったらその方法を先生があっさり教えて、その場で実践させて「それでは次回までに」というのが普通だと思うんです。

 

いや、基本はそうなのですが、生田教室はその熱量が違いました。

 

生田先生が、学生一人一人に真剣に向き合ってくれるんです。

こう書くと、何と素晴らしい先生なんだろうと思われるでしょう。

そうなんです、確かに素晴らしい先生なんです。

ただ、なかなか上達しない学生などにとっては、その熱量は非常に厳しいものでした。

 

そして、原稿読みの技術だけでなく、人間性についてもアナウンサーになるために間違っていると思う部分は容赦なく指導されます。

もうね、この怒られるときの語彙の豊富さに怒られながら「さすが長年アナウンサーやってきた人だ」と感嘆するくらいでした。

この辺りは通っていた人には通っていた人の分のエピソードがあって、先輩後輩含めてエピソードを紡いでいったら、おそらく辞書レベルの厚さの本ができるくらいだと思います。

 

この部分を詳しく書くと、何日もかかりますし、ある面トラウマの部分もありますので、割愛します。ある先輩の言葉を借りれば「地獄の日々」

これで何とか雰囲気を感じ取っていただけるかなと思います。

 

試験に落ちたというような報告をしても、慰めの言葉など(少なくとも私の場合は)一切なく、何が足りなかったのかを「指導」されます。

はっきり言って授業全般「怖かった」の一言です。

 

こうした厳しい指導ですと、生徒は3つにわかれます。

ついていけないと思って辞める人とそれでもアナになりたいからついていく人です。

そしてもう1つは「辞めたいけれど辞める勇気がなかった」人です。

 

私の場合は3番目でしたかね。意外とこれが大多数だったかも知れませんが。

だって、「辞める」と言い出すと何を言われるか怖いじゃないですか。

実際には「ああ、そうですか」と言われて、あっさり終わったらしいですが。

しかし、その後の生田先生の寂しそうな雰囲気は忘れられません。

――俺の情熱が通じなかったか――という想いで溢れるのでしょう。

 

 

でも、もう1つ辞めなかった理由があります。

それは授業が終わった後の飲みがあったからです。

そこかい、と思う方もいるでしょう。でも、これが大事だったんです。

 

授業の時に厳しくした意図やフォローなどがあったり、さっきまでの怒りはどこへといった風で野球の話になったりと第二の授業とでも言えるものだったんです。

私は家が近いということでよく残っていました。そこで授業中とも違うお人柄(授業の延長というような砂をかむが如き飲みになったりした時もありましたが)に接することもできたのです。

 

これがあったから私はなんとか踏みとどまれたような気がします。

 

私如きが人物批評するようなことはできないのですが、生田先生のことをあえて言うなら「凄い人」だったなという一言でした。

 

次回は、この個性的だった生田先生との別れについてお書きします。

 

信仰する月に向かって祈る尼子家再興に懸けた名将 山中鹿之助

「我に七難八苦を与えたまえ」と主家再興の困難に立ち向かう決意をしました。

私は「七難八苦」など望んでなかったんですが、生田教室で体験しました(´;ω;`)