旧暦の4月7日にはこんなことがありました。 


 永禄7年4月7日(ユリウス暦1564年5月17日)、長宗我部元親が潮江城城主・森孝頼へ旧領の森城を返還し森氏を調略すると、本山城の本山茂辰は味方の離反を恐れてこの日本山城を捨て瓜生野城に篭もりました。元親はすくさま軍勢を送り出しました。茂辰は瓜生野城にて徹底抗戦をしますが病死、永禄11年(ユリウス暦1568年)冬に落城し本山氏の勢力をそのまま吸収しました。
(長宗我部元親の土佐統一) 


 元亀4年4月7日(ユリウス暦1573年5月8日)、織田信長が京都より撤収、この日は近江国守山を経由して百済寺の布陣しました。二三日して織田信長は、近江国百済寺と「一揆同意」した六角義治の籠城する近江国鯰江城を攻撃するため佐久間信盛・蒲生賢秀・丹羽長秀・柴田勝家を命じ、四方から包囲して対峙しました。(信長公記、百済寺を焼き討ち)


 天正3年4月7日(ユリウス暦1575年5月16日)、織田信長が若松に布陣しました。(信長公記、新堀城攻め)


 天正3年4月7日(ユリウス暦1575年5月16日)、十市遠長が織田信長と共に河内国へ出陣しました。(多聞院日記2)


 天正3年4月7日(ユリウス暦1575年5月16日)、本願寺顕如が北陸門徒中へ織田信長の「破却宗旨之企」により石山に籠城したので、兵銀米の遅滞無き搬送を命令し、「仏法擁護再興」の機会であることを通達しました。(浄光寺文書)


 天正6年4月7日(ユリウス暦1578年5月13日)、織田信長が神保長住を二条の新邸に招き、近頃対面しなかった理由を武井夕庵、佐々長秋を通じて説明し黄金百枚と、しじら百反を進呈しました。また越中を侵していた上杉謙信が死亡したので、飛騨の国司三木自綱に警護を命じ、佐々長秋を添えて、神保長住を越中へ入国させました。(信長公記)


 天正7年4月7日(ユリウス暦1579年5月2日)、徳川家康の3男・徳川秀忠が遠江国浜松城で生まれました。母は西郷局。 


 天正12年4月7日(グレゴリオ暦1584年5月16日)、羽柴軍と織田・徳川連合軍は小牧山付近にて対陣状態に陥っていたが、羽柴秀吉は4月5日(グレゴリオ暦1584年5月14日)に池田恒興の策を許可し、三河西部へ向けて前進すべしと命令、支隊は上末城主落合氏など土豪地侍や郷士の案内のもと4月6日夜半に出発しました。更に秀吉は4月7日(グレゴリオ暦5月16日)のこの日、池田恒興、森長可、羽柴秀次を送り出しました。日付は4月6日(グレゴリオ暦5月15日)とも。(三河中入り作戦) 


 天正18年4月7日(グレゴリオ暦1590年5月10日)、伊達政宗小田原参陣のためが母保春院から招きを受け、黒川城で保春院と弟・小次郎により毒殺されかけたため、弟の小次郎政道を斬殺。小次郎政道は享年不詳。母・保春院は山形の最上家へ奔りました。


 天正20年4月7日(グレゴリオ暦1592年5月18日)、朝鮮出兵の為に肥前名護屋に向かった羽柴秀吉が備中国矢懸に到着しました。(文禄の役) 


 文禄3年4月7日(グレゴリオ暦1594年5月26日)、前田利家が権中納言・正三位に昇進しました。 


 慶長20年4月7日(1615年5月4日)、徳川家康が西国の諸大名に大坂方討伐へ鳥羽・伏見に集結するように命じました。(大坂夏の陣)

写真は伊達政宗の銅像でする✨