旧暦の4月6日にはこんなことがありました。


 天文3年4月6日(ユリウス暦1534年5月18日)、叔父の里見実堯と正木通綱を稲村城にて誅殺した里見義豊が、北条氏綱の加勢を受けた実堯の長男・里見義堯に犬掛にて奇襲攻撃を受け稲村城に逃げ込みましたが、義堯軍は勢いに乗じて稲村城へ突入。里見義豊は稲村城から逃げ出し進退窮まって自害しました。享年27歳。(天文の内訌) 


 天文3年4月6日(ユリウス暦1534年5月18日)、豊後平定を狙う大内義隆が豊前国宇佐郡糸口原に布陣。一方、大友義鑑は国東吉弘城主・吉弘氏直、寒田親将を大将に、豊前大村山の頂上に軍勢を集結。この日の早朝、大村山の大友軍に対し、大内軍が勢場ヶ原から奇襲をかけました。動揺した大友軍の吉弘氏直はこれに対し敵軍めがけて突進、寒田親将は敵の大将・杉長門守を一騎討ちで討ち取りましたが、数で勝る大内軍は鶴翼の陣に切り替え、吉弘氏直は矢が馬に当たり転落、徒歩で戦ったが矢疵を受けて倒れ討死しました。吉弘氏直を助けようとした寒田親将も討死しました。(勢場ヶ原の戦い) 


天文22年4月6日(ユリウス暦1553年5月18日)、武田晴信が村上義清の葛尾城を包囲しました。義清は戦わずして脱出、長尾景虎を頼り越後国へ逃亡しました。(武田信玄の信濃侵攻)


永禄10年4月6日(ユリウス暦1567年5月14日)、松永久秀が三好義継を擁し、泉州堺から大和信貴山城に入りました。(三好家中の権力争い) 


永禄13年4月6日(ユリウス暦1570年5月10日)、松永久秀が阿弥陀寺清玉上人へ東大寺大仏殿再興についての馳走を賞し、「天下無双之大伽藍」として後代までの名誉となることを通知しました。(阿弥陀寺文書) 


 元亀4年4月6日(ユリウス暦1573年5月7日)、織田信広が信長公の御名代として足利義昭に会見し、和睦成立の挨拶をしました。(信長公記) 


 天正3年4月6日(ユリウス暦1575年5月15日)、織田信長が、京都より直接南方へ出陣し、この日は八幡に布陣しました。(信長公記、新堀城攻略)


天正6年4月6日(ユリウス暦1578年5月12日)、羽柴秀吉が長井政重の播磨野口城を攻め落しました。(三木城の戦い) 


 天正15年4月6日(グレゴリオ暦1587年5月13日)、出羽角館城主戸沢盛安が騎馬7百騎と雑兵を合わせて3千の軍勢で攻め込んで来た安東愛季と戦いこれを退けました。(唐松野の戦い) 


 天正15年4月6日(グレゴリオ暦1587年5月13日)、羽柴秀吉が日向国高城・財部城の間に51ヶ所の陣所を構築しました。(旧記雑録後編、秀吉の九州平定) 


 天正15年4月6日(グレゴリオ暦1587年5月13日)、羽柴秀長軍が耳川を渡り高城を包囲しました。またこの頃、伊東祐兵、日向の伊東旧臣を煽動して蜂起させました。(日向記、秀吉の九州平定) 


 天正18年4月6日(グレゴリオ暦1590年5月9日)、豊臣秀吉が早雲寺に本陣を置き、北条氏政・氏直親子の小田原城を包囲、兵糧攻めにしました。(小田原征伐) 


 慶長16年4月6日(グレゴリオ暦1611年5月18日)、豊臣家五奉行の一人、浅野長政が真壁陣屋にて病没しました。享年65歳。正室は北政所の妹・やや(長生院)でした。

写真は天文の内訌が起こった稲村城でする✨