旧暦の4月5日にはこんなことがありました。 


 天文17年4月5日(ユリウス暦1548年5月12日)、上田原の戦いにて武田信玄に大勝した村上義清がこの日、小笠原長時、仁科盛能、藤沢頼親らと諏訪郡に侵攻し放火、諏訪下社を占領しました。(神使御頭之日記、武田信玄の信濃侵攻)


 弘治2年4月5日(ユリウス暦1556年5月13日)、下総結城城主結城政勝が北条氏康から援軍として岩付城主・太田資正と江戸城主・遠山景綱を授けられ小田領へ侵入、海老ヶ島にて合戦に及び、小田氏治が大敗し、海老ヶ島城、小田城を奪われました。(海老ヶ島の戦い) 


 永禄5年4月5日(ユリウス暦1562年5月7日)、浪岡北畠家の当主・浪岡具永の庶子の北畠具信が、所領問題で甥の浪岡具運と争い、具運を暗殺しました。しかし自らも具運の弟の顕範によって殺されてしまいました。これにより浪岡北畠氏の衰退が始まりました。(河原御所の乱)  


元亀4年4月5日(ユリウス暦1573年5月6日)、正親町天皇が、織田信長へ二条晴良・三条西実枝・庭田重保を勅使として派遣、足利義昭との和義を講じさせました。(兼見卿記) 


 天正11年4月5日(ユリウス暦1583年5月26日)、柴田勝家勢が堀秀政の守る秀吉方の最前線・左禰山砦(東野山砦)に攻めかかました。(賤ヶ岳の戦いの前哨戦) 


 天正14年4月5日(グレゴリオ暦1586年5月23日)、大友宗麟が大坂城にて羽柴秀吉に面会し島津軍討伐の要請を行いました。また秀吉は大友宗麟に大坂城を見学させ千宗易により茶の湯が振る舞われました。 


 天正15年4月5日(グレゴリオ暦1587年5月12日)、新納元忠らが坂中を襲撃、新納元忠は熊本城、新納久暁は合子城、伊集院久治は津守城、島津以久は八代城にそれぞれ入城し防備を固めました。(旧記雑録後編、秀吉の九州平定) 


 慶長14年4月5日(グレゴリオ暦1609年5月8日)、島津家久が樺山久高を総大将とし琉球に侵攻し、この日琉球王・尚寧が降伏し、琉球王朝が滅びました。 


 写真は海老ヶ島城の中心と思われる筑西市の新善光寺でする✨