旧暦の4月4日にはこんなことがありました。


永禄3年4月4日(ユリウス暦1560年4月29日)、将軍足利義輝が毛利元就に通達、毛利・尼子両家の和談を勧め、石見国における戦闘を停止することを求めました。聖護院門跡道増が逗留中なので相談すること、両家の和議は天下静謐の基であるとしました。


永禄9年4月4日(ユリウス暦1566年4月23日)、三好長慶死後、松永久秀の力が大きくなり、松永久秀を排除しようとした三好三人衆が大和に侵入、松永久秀勢と戦いました。


元亀4年4月4日(ユリウス暦1573年5月5日)、織田信長が二条の将軍御所を包囲し、上京の町を焼き払いました。将軍足利義昭は守りきれないと諦め、和義に応じる旨の返事を伝えました。信長もこれを了承しました。(信長公記)


天正3年4月4日(ユリウス暦1575年5月13日)、明智光秀が2000余の軍勢を率い河内国へ出陣し、高屋城の三好長康を攻めました。(兼見卿記、明智軍記)


天正6年4月4日(ユリウス暦1578年5月10日)、織田信長が織田信忠を総大将とし、尾張・美濃・伊勢の軍勢、織田信雄・織田信包・織田信孝・織田信純・滝川一益・明智光秀・蜂屋頼隆・丹羽長秀、近江・若狭・五畿内の軍勢を大坂方面(石山本願寺)へ出陣させました。(信長公記)


天正8年4月4日(ユリウス暦1580年5月17日)、織田信長が、細川藤孝・中川清秀へ「大坂赦免」にあたり摂津国尼崎に於ける「矢留」を命令、本願寺顕如らの石山本願寺退城が近いので「矢留」をする旨を通達。但しその間も付城以下の番役は厳重にすべきことを命令しました。


天正10年4月4日(ユリウス暦1582年4月26日)、羽柴秀吉が備前国岡山に着陣、備中高松城主清水宗治を誘降しましたが清水宗治はこれを拒否しました。


天正11年4月4日(ユリウス暦1583年5月25日)、羽柴秀吉と対峙中の柴田勝家勢が羽柴秀吉方が布陣する神明山に攻めかかりました。(賤ヶ岳の戦いの前哨戦)


天正15年4月4日(グレゴリオ暦1587年5月11日)、羽柴秀吉が筑後国高良山に到着し、龍造寺晴豊、筑紫広門を謁見し臣従させました。(秀吉の九州平定)


慶長20年4月4日(グレゴリオ暦1615年5月11日)、大坂に浪人の乱暴・狼藉、堀や塀の復旧、京や伏見への放火の風聞といった不穏な動きがあるとする報が京都所司代・板倉勝重より駿府へ届くと、徳川家康は大坂再征を命じ、自身はこの日、九男・徳川義直の婚儀のためとして駿府を出発、大坂方の征伐に向け名古屋に向かいました。(大坂夏の陣)


写真は大阪城の千貫櫓でする✨2代将軍徳川秀忠の頃に作事奉行・小堀遠州による普請ですが、名前の由来は大阪城が石山本願寺だった頃、信長がここを攻略出来たら一千貫文出しでも良いと言った事に由来しまする✨