旧暦の4月3日にはこんなことがありました。 


 明応6年4月3日(ユリウス暦1497年5月5日)、美濃守護代・斎藤妙純に敗れ家督を息子の政房に譲り隠居にしていた前美濃守護・土岐成頼が没しました。享年56歳。


 天文2年4月3日(ユリウス暦1533年4月27日)、大内義隆の家臣で陶晴賢の父・陶興房が肥前に侵入、少弐資元勢と戦いました。 


 天文22年4月3日(ユリウス暦1553年5月15日)、武田信玄が信濃村上義清方の会田氏の虚空蔵山に放火し、塔原城とともに落としました。(武田信玄の信濃侵攻) 


 天文22年4月3日(ユリウス暦1553年5月15日)、北条氏康が正木兵部大輔、峰上城の吉原玄蕃助ら峰上二十二人衆らの手引きにより房州に内乱を起こさせ(房州逆乱)、北条綱成勢を安房に送り込み、里見義堯・義弘親子を攻めました。保田妙本寺の住持・日我は金谷城に避難し、この日、北条綱成が保田妙本寺に禁制を掲げました。


弘治3年4月3日(ユリウス暦1557年5月1日)、長門長福院にて毛利軍に包囲された大内義長がこの日、陶晴賢の末子・陶鶴寿丸とともに自害して果てました。享年26歳。これにより毛利元就が防長二カ国を手に入れました。(毛利元就の防長経略) 


 永禄9年4月3日(ユリウス暦1566年4月22日)、今川氏真が駿河富士大宮浅間社の富士氏に、その門前を楽市とする朱印状を発行しました。 


 元亀3年4月3日(ユリウス暦1572年5月14日)、義父である朝倉景総の示唆に乗り、朝倉宗家に謀叛を起こした朝倉景豊が朝倉家9代当主・朝倉貞景に攻められ居城・敦賀城にて自害しました。享年不詳。(朝倉家の内訌) 


 元亀4年4月3日(ユリウス暦1573年5月4日)、織田信長が洛外の堂塔寺庵を除外して放火をしました。その上で、将軍足利義昭の返答次第では和睦をしてもよいと将軍方に交渉しましたが、聞き入れられなかったので、容赦をせず攻撃することにしました。(信長公記) 


 天正2年4月3日(ユリウス暦1574年4月23日)、六角承禎、義弼父子は観音寺城落城後、甲賀の石部城に拠り、兵力を増やすために一向一揆勢を引き入れましたが、この日、織田方の佐久間信盛が一向一揆に加担した近江石部城下の民家を焼き払いました。 


 天正4年4月3日(ユリウス暦1576年5月1日)、織田信長が大坂石山本願寺を攻撃中の明智光秀・細川藤孝に、麦の取り立てと籠城中の男女は赦免するので早急に退去を求める立て札を掲げることを指示しました。但し、「僧侶以下、再起を期す者は許さじ」としました。(小柳津繁樹氏文書) 


 天正6年4月3日(ユリウス暦1578年5月9日)、羽柴秀吉が播磨三木城の攻めを中断、長井政重の拠る野口城に攻めかかりこれを攻略しました。(三木城の合戦) 


 天正10年4月3日(ユリウス暦1582年4月25日)、快川紹喜国師が恵林寺で焼け死にました。この日、織田信長が甲斐国甲府の躑躅ヶ崎館に到着、恵林寺の探索を織田信忠に命じました。信忠は関長安、津田元嘉、長谷川丹後、赤座永兼を奉行として恵林寺に向かわせ、かつて織田信長の上洛を阻んだ六角次郎の身柄の引渡しを要求します。しかし、快川紹喜国師は拒否します。信忠は恵林寺を取り囲み、三門の二階に寺内の150人の僧侶を押し込み、刈り取った草を積み上げ火を放ちました。多くの僧侶がもがき苦しむ中、快川国師だけがじっと座ったまま焼け死んだといいます。また快川紹喜は「安禅不必須山水 滅却心頭火自涼」の辞世の句を残したとされます。
(甲州征伐) 


 天正12年4月3日(グレゴリオ暦1584年5月12日)、羽柴秀吉が尾張国から西方へ出馬し美濃国加賀野井城・奥城・竹鼻城を包囲しました。
(小牧・長久手の戦い) 


 天正15年4月3日(グレゴリオ暦1587年5月10日)、羽柴秀吉が筑前国厳石城を陥落させ、ついで秋月種実親子を剃髪させ降伏させました。(大友家文書録、秀吉の九州平定) 


 写真は快川紹喜が焼け死んだ恵林寺の三門でする✨