旧暦の4月1日にはこんな事がありました。


文亀元年4月1日(ユリウス暦1501年4月18日)、元関白・九条政基が家領の泉州日根荘の経営のため下向しました。九条政基とその息子で後の関白・九条尚経とは、金銭関係のもつれから九条政基の従兄弟・唐橋在数を殺害するという公家社会でも異例の事件を起こしましたが、その時の動機となった泉州日根荘経営のため九条政基が泉州に下向したものです。


元亀3年4月1日(ユリウス暦1572年5月12日)、琉球王尚元が没しました。享年44歳。詳しくは下記を、


https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%9A%E5%85%83%E7%8E%8B#:~:text=%E5%B0%9A%E5%85%83%E7%8E%8B%EF%BC%88%E3%81%97%E3%82%87%E3%81%86%E3%81%92%E3%82%93,%E3%81%A6%E3%81%A0%E3%81%AF%E3%81%98%E3%82%81%E3%81%82%E3%82%93%E3%81%98%E3%81%8A%E3%81%9D%E3%81%84%EF%BC%89%E3%80%82


天正4年4月1日(ユリウス暦1575年5月10日)、織田信長が近江国安土山の大石で、石垣の構築を開始、その中に天主閣を建築するようにとの命令でした。尾張・美濃・伊勢・三河・越前・若狭・畿内の諸侍、および京都・奈良・堺の大工や諸職人を召集し安土に詰めさせ、また、瓦焼き職人の唐人一観を召し出しました。天守閣は唐様に仕上げるように命じました。(信長公記)


天正8年4月1日(ユリウス暦1580年4月29日)、羽柴秀吉が播磨英賀城を攻撃しました。(三木城の合戦)


天正12年4月1日(グレゴリオ暦1584年5月10日)、羽柴秀吉が小牧山の陣所を撤退しました。(土佐国古文書、小牧・長久手の戦い)


天正13年4月1日(グレゴリオ暦1585年4月30日)紀州攻めに出陣した羽柴秀吉が、紀伊国太田城の周囲を堤で囲み水を引き入れました。(秀吉の雑賀攻め)


天正15年4月1日(グレゴリオ暦1587年5月8日)、羽柴秀吉が豊前国板原に着陣しました。(大友家文書録、九州平定)


天正18年4月1日(1590年5月4日)、豊臣水軍を受け持った長宗我部元親が、軍艦大黒丸で北条方清水康英の籠もる伊豆下田城を攻撃しました。(小田原征伐)


天正18年4月1日(グレゴリオ暦1590年5月4日)、羽柴秀吉が箱根山へ移陣、途上にて足柄城・鷹巣城・久野弥城・深川砦を攻略しました。また、徳川家康・羽柴秀次・宇喜多秀家が箱根口より小田原へ侵入、堀秀政・長谷川秀一・池田輝政・丹羽長重・木村重茲らが熱海口より小田原へ侵入しました。(本願寺文書、小田原征伐)


慶長5年4月1日(1600年5月13日)、徳川家康が上杉景勝に入京を要請するが、景勝はこれを拒否する。(関ヶ原の戦い)


写真は小田原城でする✨