旧暦の3月30日にはこんなことがありました。


永禄3年3月30日(ユリウス暦1560年4月25日)、長尾景虎と同盟関係にあった椎名康胤が、越中守護代を称する神保長職に攻められたため、この日長尾景虎が神保長職を攻め富山城を落城させました。神保長職は増山城に待避。(上杉謙信の北陸侵攻)


永禄4年3月30日(ユリウス暦1561年4月14日)、将軍足利義輝が三好長慶邸に御成りの際、細川晴元との和睦を提案しました。三好長慶は、和睦を了承し、細川晴元を受け入れることにしたようです。


永禄6年3月30日(ユリウス暦1563年4月22日)、武田信玄が信濃塩尻の伝馬の制を定めました。内政に長けた武田信玄は、甲州伝馬制に続き、信濃にも伝馬制度を展開し、商工業・流通に不可欠な物流拠点の整備を行ったものです。


元亀4年3月30日(ユリウス暦1573年5月1日)、将軍義昭が三好三人衆・松永久秀らとともに、信長方京都所司代村井貞勝の屋敷を包囲しました。足利義昭は、実兄の足利義輝を三好三人衆・松永久通に殺されたため、各地を放浪し、正親町天皇の呼びかけに応じた織田信長に擁立されて、上洛を果たしました。足利義昭にとって、三好三人衆と松永久秀は実兄の仇でしたが、権力欲に取り付かれ、西上作戦で行軍中の武田信玄の来援に期待して、織田信長に対抗するため、元亀4年3月6日(ユリウス暦1573年4月7日)、兄の仇と手を組み挙兵しました。しかし三方原で織田・徳川連合軍を破ってから三ヶ月、武田信玄の進軍は三河国内で完全に止まってしまいました。これにより織田信長は足利義昭打倒のために上京、大軍を京都近隣に配置しながらも、将軍殺しの汚名を回避するため、慎重な対応をとり、和睦の姿勢を示すが、強気の姿勢を示す足利義昭は同意せず、京都所司代の屋敷を包囲し、これを焼き払ったものです。


天正6年3月30日(ユリウス暦1578年5月6日)、上杉景勝が越後坂戸城主の深沢利重に命令、上野国との境目守備を厳重にするよう伝えました。天正6年3月13日(ユリウス暦1578年4月19日)の上杉謙信の逝去に伴い、上杉家中では景勝と景虎の跡目争い(御館の乱)が発生した為です。


天正17年3月30日(グレゴリオ暦1589年5月14日)、常陸国の国人領主・真壁久幹が亡くなりました。享年66歳。初め小田氏に従っていましたが、天文17年(ユリウス暦1548年)に水谷正村と結んで離反しました。永禄3年(ユリウス暦1560年)、大掾慶幹を攻めるも古河公方足利義氏の仲介で和睦。翌永禄4年(ユリウス暦1561年)、佐竹義昭がこの地に進出するとこれと手を結び、片野城の太田資正や、その次男で久幹の娘婿である梶原政景とともに小田氏に対する尖兵的役割を担いました。特に永禄12年(ユリウス暦1569年)の手這坂の戦いでは小田氏治の軍勢に大打撃を与えた上、小田城も攻略し、以後氏治の本拠地奪還を不可能としました。なお、この戦いでは配下の根来法師大蔵坊に岡見治資を鉄砲で狙撃させたと伝えられており、これは当地における早期の鉄砲使用例といわれています。小田氏治と佐竹義重の和睦の仲介にあたりました。「鬼真壁」と言われたのはこの人の息子の真壁氏幹か或いは真壁久幹か良く混同されますが、この人と思われます。長さ一丈(3m)の六角形の断面の鉄の鋲を打ち付けた樫の棒を振り回し一つの合戦で163人も打ち倒した伝説がある棒術の使い手でした。軒号は「闇轢軒」を称しました。


慶長9年3月30日(グレゴリオ暦1604年4月29日)、小堀遠州の父・小堀正次が亡くなりました。享年64歳。詳しくは下記を、


https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%A0%80%E6%AD%A3%E6%AC%A1


写真は真壁城でする✨