旧暦の3月29日にはこんなことがありました。


明応9年3月29日(ユリウス暦1500年4月27日)、毛利弘元がまだ8歳の幸千代丸(後の毛利興元)に所領と家督を譲り、興元の弟である松寿丸(後の毛利元就)らを連れて多治比猿掛城に隠居したため、幸千代丸が幼くして毛利氏の当主となりました。


天文11年3月29日(ユリウス暦1542年4月14日)、肥前・小城城主・千葉喜胤が病を苦に自害。享年不詳。家督は、婿養子である千葉胤頼(少弐政資の孫)が継ぎましたが、龍造寺隆信と対立するようになり、千葉胤頼も永禄2(ユリウス暦1559)年に自害することとなります。


天文16年3月29日(ユリウス暦1547年4月19日)、足利義晴・義輝が、細川晴元を討つために京都北白川城に入城しました。


元亀4年3月29日(ユリウス暦1573年4月30日)、織田信長が1万5千の軍勢で入京。足利義昭に圧力を掛けました。信長は知恩院に布陣、柴田勝家は吉田郷、丹羽長秀は聖護院、明智光秀は賀茂に布陣して二条御所の足利義昭と対峙しました。


天正6年3月29日(ユリウス暦1578年5月5日)、羽柴秀吉が別所長治の播磨三木城の包囲を開始しました。秀吉は三木城の支城を攻略し三木城を凡そ2年間に渡り包囲することになります。(三木の干殺し)


天正6年3月29日(ユリウス暦1578年5月5日)、美濃斎藤氏家臣の佐藤紀伊守忠能が没しました。詳しくは下記を、


https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E5%BF%A0%E8%83%BD


天正9年3月29日(ユリウス暦1581年5月2日)、羽柴秀吉が京都清水寺で村井貞勝・松井友閑らと猿楽を見物しました。


天正10年3月29日(ユリウス暦1582年4月21日)、織田信長が甲斐武田氏討伐を完遂し、「知行割」の「覚」を発しました。

河尻秀隆は穴山信君の本知を除外した甲斐国及び信濃国諏訪を拝領しました。

徳川家康は駿河国を拝領しました。

滝川一益は上野国および信濃国小県郡・佐久郡を拝領しました。

森長可は信濃国高井郡・水内郡・更科郡・埴科郡を拝領しました。

木曾義昌は信濃国木曽谷および安曇郡・筑摩郡を拝領しました。

毛利秀頼は信濃国伊那郡を拝領しました。

(池田家文庫本・信長記)


天正12年3月29日(グレゴリオ暦1584年5月9日)、織田信雄が尾張小牧山へ移陣しました。(小牧・長久手の戦い)


天正15年3月29日(グレゴリオ暦1587年5月6日)、羽柴秀長が日向に入り縣城(延岡城)を包囲し攻略しました。土持久綱は島津家久を頼み佐土原へ退却しました。(九州役年月表、九州平定)


天正18年3月29日(グレゴリオ暦1590年5月3日)、羽柴秀次軍が牛刻から戦闘を開始し北条方の箱根山中城をわずか数時間で落としました。北条方では松田康長・間宮康俊が討死、また豊臣方では一柳直末が討死しました。享年38歳とも45歳とも(小田原征伐)


写真は山中城でする✨