旧暦の3月22日にはこんなことがありました。

大永7年3月22日(ユリウス暦1527年4月22日)、阿波の細川持隆・三好元長が足利義維と細川晴元を奉じて泉州堺に進出しました。その後、義維は入京せず、堺の四条道場引接寺に滞在しながら、晴元とともに京都を支配したため、義維とその政権は現在の戦国史において、堺公方(または堺大樹、堺幕府)と呼ばれています。

天文17年3月22日(ユリウス暦1548年4月30日)、肥前国国人、龍造寺氏の正統で17代当主の龍造寺豊前守胤栄が病没しました。享年は不詳。嫡子がいなかったため、水ケ江龍造寺家の龍造寺兼家の曾孫・胤信(後の龍造寺隆信)が龍造寺氏の当主となりました。

天文17年3月22日(ユリウス暦1548年4月30日)、朝倉義景の父・朝倉孝景が没しました。享年55歳。一門の朝倉宗滴の補佐を受けて、当時混乱の多かった周辺国の加賀・美濃・近江・若狭にしばしば出兵・侵攻し、各国の守護家や諸勢力に軍事的優位性、政治的影響力を見せ付け、代々対立してきた加賀一向一揆との和睦を成立させたと言われています。絶え間なく中央(京都)および周辺諸国情勢に煩わされたが、結果的に朝倉氏の勢力をさらに拡大するとともに、朝廷や幕府との繋がりをも深め、越前に更なる繁栄をもたらし、本拠・一乗谷城に京風の文化を華開かせました。

天正9年3月22日(ユリウス暦1581年4月25日)、徳川家康が遠江高天神城を落としました。天正8年10月12日(ユリウス暦1580年11月18日)に浜松城を出撃した徳川家康は約半年間、高天神城を包囲しました。これに対し武田勝頼は後詰の兵を送ったり兵糧の搬入を試みたりすることも無く高天神城は落城し、城将・岡部元信を初めとしほとんどの兵が討死しました。これにより武田勝頼の信望は一気に堕ち、甲州征伐における木曾義昌の離反や、織田勢侵攻による諸将総崩れの要因の一つとなりました。

天正12年3月22日(グレゴリオ暦1584年5月2日)、織田信雄・徳川家康に呼応した雑賀・根来一揆衆が和泉堺・大坂に進出を試みるが、岸和田城主中村一氏に撃退されました。

天正13年3月22日(グレゴリオ暦1585年4月21日)、羽柴秀吉勢が雑賀・根来衆の拠る泉州積善寺城を開城させました。3月21日、岸和田城から細川忠興、大谷吉継、蒲生賦秀、池田輝政らが出陣、夕刻に積善寺城への攻撃を開始しこの日開城させたものです。

慶長6年3月22日(グレゴリオ暦1601年4月24日)、毛利秀包が没しました。享年35歳。毛利元就の九男で、兄・小早川隆景の養子になりました。豊臣秀吉の人質となった後、秀吉に気に入られ、九州征伐で活躍して久留米城主となります。立花宗茂と意気投合し、文禄の役の碧蹄館の戦いや、関ヶ原合戦の大津城攻めでともに奮戦しました。関ヶ原後、小早川姓から毛利姓に戻しました。

写真は高天神城でする✨