旧暦の3月21日にはこんなことがありました。

永禄12年3月21日(ユリウス暦1569年4月7日)、小笠原秀政が山城国宇治田原にて生まれました。父は貞慶で信濃守護・小笠原長時の孫になります。武田信玄に追われて彷徨した幼少期を持ち、本能寺の変で織田信長が横死後、父・貞慶が徳川家康に一旦仕えた為、人質として石川数正に預けられ、石川数正が秀吉に出奔したためにしばらく豊臣秀吉の元にいました。秀政の「秀」は秀吉からの偏諱です。徳川家康の元に復帰した時に徳川家康の孫娘(松平信康の娘・登久姫)を正室に迎えました。大坂夏の陣で、長男・小笠原忠脩ともども戦死しました。徳川家康の影武者をしていたとの話しもあります。

天正5年3月21日(ユリウス暦1577年4月9日)、土橋守重・鈴木重秀・岡崎三郎大夫・松田源三大夫・宮本兵大夫・島崎左衛門大夫・栗村二郎大夫の七人が連署で誓紙を出てきたので、織田信長はこれらを赦免しました。信長は陣を解き、香庄まてま後退しました。(雑賀の陣、信長公記)

天正10年3月21日(ユリウス暦1582年4月13日)、織田信長が諏訪に到着し、北条氏政の使者より戦勝の祝いの音物を受け取りました。(織田信長の甲州征伐)

天正12年3月21日(グレゴリオ暦1584年5月1日)、羽柴秀吉が兵三万を率いて大坂城を出発しました。(小牧・長久手の戦い)

天正13年3月21日(グレゴリオ暦1585年4月20日)、羽柴秀吉が紀伊国雑賀・根来一揆討伐の為大軍を率いて大坂城を発し、岸和田城に入り、千石堀城を落としました。同日夜、畠中城の紀州勢は城に火を放ち退却しました。 

天正14年3月21日(ユリウス暦1586年5月1日)、陸奥国弘前藩2代藩主・津軽信枚が生まれました。関ヶ原の戦いが起こると、津軽氏は父・為信が徳川家康方に、兄・信建が石田三成方についたともいわれてます。これは親子兄弟が分かれて東西陣営両天秤にかけたともいわれています。信枚の動向については、ある関ヶ原合戦図の東軍家康本陣には「卍」の旗が描かれており、これが信枚が家康本陣に詰めていたとする一史料とされています。また、戦後数々の親石田・西軍方的な動きなどが不問となり、父や兄を差し置いて、信枚一人だけが論功叙任されていること、僅かながらも上野国大館に加増2000石を受けており、石田方に味方していたと言う説の現実味も増します。室は石田三成の娘・辰姫、後に家康の養女・満天姫を正室に迎えると、辰姫は側室とされました。

慶長17年3月21日(グレゴリオ暦1612年4月21日)、岡本大八事件をきっかけにこの日徳川家康が幕府直轄領に対するキリシタン禁教令を発令しました。同日、岡本大八は駿府市中引き回しの上安倍川の河原にて火炙りの刑に処せられ、また小西行長が朝鮮から連れて来たジュリアおたあも伊豆大島へ流罪となりました。

寛永3年3月21日(グレゴリオ暦1626年4月17日)、真田昌幸の従弟・矢沢三十郎頼康が亡くなりました。享年不詳。天正13年(ユリウス暦1585年)の第1次上田合戦では、上杉景勝からの援軍と共に支城の矢沢城に篭って徳川の依田勢1500を退け、追撃戦では大久保忠世らを散々に蹴散らす活躍を見せました。また関ヶ原の戦い時には真田信之に属し、信之の息子である信政を人質として徳川家康のもとに送り届けたといいます。その後も当主となった信之に仕え、大坂の陣では信之の代わりに出陣した子(信吉、信政)らを補佐しました。出陣にあたって、信之は頼康に「何事も油断なく、間に入って頼み入り候」と書き送っています。

寛永19年3月21日(グレゴリオ暦1642年4月20日)、武田信玄の六男(七男とも)の武田信清が亡くなりました。享年80歳とも83歳とも。

写真は伊豆大島のジュリアおたあの十字架でする✨