旧暦の3月16日にはこんなことがありました。

明応6年3月16日(ユリウス暦1497年4月27日)、備前守護代で三石城将浦上宗助が松田元勝の属城富山城を攻めましたが、後詰めの松田元藤の兵と富山城の守備兵に挟撃され竜の口山に退却するが、追撃の松田勢に包囲されてしいました。ここに宇喜多直家の祖父・宇喜多能家が松田勢を敗走させて危機を脱しました。

天文15年3月16日(ユリウス暦1546年4月16日)大和興福寺の国人・十市遠忠が没しました。享年不詳。(多聞院日記)明応6年(ユリウス暦1497年)、十市遠治の子として誕生。享禄元年(ユリウス暦1528年)、畠山氏の重臣・木沢長政が大和へ侵攻した際に義弟・筒井順昭と袂を分かち、木沢・筒井氏と戦いました。特に木沢長政と戦った龍王山城と信貴山城の戦いは熾烈を極めました。天文元年7月(ユリウス暦1532年)、大和一向宗と興福寺衆徒の間で天文の錯乱が起こり興福寺が焼けました。同年8月、一向一揆は高取城の越智家栄を攻めるが筒井氏、十市氏の活躍で潰滅しました。天文2年(ユリウス暦1533年)、父の死を受けて家督を継ぎました(家督を継いだのはユリウス暦1528年以前とも)。天文5年(ユリウス暦1536年)、龍王山にあった城を改修し、北側に新たに本城を築いて南北一体の大規模な城を築いた。その後、居城を十市城(現・奈良県橿原市十市町)から龍王山城に移しています。同年1月21日、春日社参し御幣料1貫・神楽料5貫備進しました(春日大社文書852)。天文7年2月29日(ユリウス暦1538年3月29日)、大和興福寺供目代御房へ大仏供上庄外護職を請けて忠勤を約束しました(春日神社文書)。天文9年9月(ユリウス暦1540年)、興福寺の依頼で幕府の仲裁があり、筒井順昭と和睦しました。(公儀日記)天文11年(ユリウス暦1542年)、木沢長政が河内国で討死するとそれに乗じて勢力を拡大し、多くの与力衆をもつ一角の大名となりました。上洛に外様15人、殿原衆40余人・中間衆6、70人を従えたといわれ、天文13年7月(ユリウス暦1544年)、筒井順昭の小柳生城攻めに従ったときは300人を指揮している。総兵力は馬上60騎・雑兵6、700人といわれる。遠忠の死後、家督は嫡子・遠勝が継ぎました。

永禄4年閏3月16日(ユリウス暦1561年5月10日)、鶴岡八幡宮にて長尾景虎が関東管領に就任、山内上杉憲政から上杉氏の名跡を譲り受け、上杉政虎と名乗りました。

永禄7年3月16日(ユリウス暦1564年5月6日)、島津忠親が日向飫肥城付近に侵入してきた伊東義祐勢を新山で迎え撃ち、これを破りました。

永禄11年3月16日(ユリウス暦1568年4月23日)、越中の椎名康胤が武田信玄・本願寺に通じて上杉謙信に背きました。

天正3年3月16日(ユリウス暦4月16日)、今川義元の子、今川氏真が信長の元に出仕し「百端帆」を献上しました。以前にも「千鳥」の香炉と飯尾宗祇から伝えられた香炉を献上しましたが、信長は宗祇の香炉は返却し「千鳥」の香炉だけを受け取りました。今川氏真が蹴鞠をするというのを聞いて、信長は3月20日(ユリウス暦4月20日)に相国寺でやって見せてくれるように頼みました。

天正10年3月16日(ユリウス暦1582年4月8日)、武田信豊が小諸城で自害しました。武田信豊は郡内領へ逃れる武田勝頼と別れ、天正10年3月2日(ユリウス暦1582年3月25日)に家臣20騎程と共に信濃小諸城へ逃れて再起を図りました。この時の武田信豊は関東へ逃れる意図もあったと言うが、信濃小諸城の城代・下曾根浄喜に叛かれ、二の丸に火を掛けられ嫡男の次郎や生母・義周院、家臣とともに自害しました。享年34歳。(信長公記、甲乱記、当代記)

天正11年3月16日(ユリウス暦1583年5月7日)徳川家康から「康」の偏諱を授かり松平康重が元服しました。

天正11年3月16日(ユリウス暦1583年5月7日)、羽柴秀吉が美濃国岐阜城で再度挙兵した織田信孝に対し大垣城に入城しました。

慶長5年3月16日(ユリウス暦1600年4月29日)、オランダ船リーフデ号が豊後海部郡臼杵荘佐志生沖に漂着しました。これをきっかけに後にウイリアム・アダムスが徳川家康に仕えることとなります。

慶長7年3月16日(ユリウス暦1602年5月7日)、仙台伊達領内で一揆が起きるが、茂庭綱元らがこれを鎮圧しました。茂庭綱元は人取橋の戦いで奮戦・戦死した鬼庭左月の嫡男で、豊臣秀吉ににより茂庭姓に変えるように言われました。豊臣秀吉、伊達政宗とは「香の前」という女性を通じた複雑な人間関係にありました。

写真は小諸城でする✨

                  小諸城大手門

       武田信豊が自害した二の丸