旧暦3月14日にはこんなことがありました。

明応6年3月14日、毛利元就が生まれました。父は安芸の国人領主・毛利弘元、母は福原広俊の娘で、福原氏の鈴屋城で生まれたとされます。安芸国衆から一代にて芸備防長雲石の六ヶ国の太守へとのし上がりました。梟雄と言われる毛利元就ですが、この人の凄いのは合戦の強さです。初陣の有田中井手の戦いでは850程の人数で安芸武田軍5000を破り、吉田郡山城の戦いでは2400の毛利軍と10000の大内軍にての尼子軍30000に勝ち、また厳島の戦いでは4000~5000の軍勢で20000~30000と言われる陶晴賢を打ち破っています。下克上でのし上がったイメージの元就ですが戦上手でもありました。


永禄5年3月14日、前年に越山した上杉謙信は厩橋城で越年し、2月17日に館林城を攻め赤井文六を追放すると、3月14日には佐野昌綱の唐沢山城を攻撃しました。しかし越後国内の情勢不安により上杉憲政とともに越後に引き揚げました。佐野昌綱は上杉謙信の侵攻を2回跳ね返したことになり、その武勇が関東に知られることとなりました。

永禄7年3月14日、島津義久が陸奥守に、島津義弘が修理太夫に就任しました。(島津家文書)

天正3年3月14日、織田信長か徳政令を発し、門跡と公家衆の借銭・借米を帳消しにしました。

天正6年3月14日、明智光秀が丹波八上城の波多野秀治・秀尚兄弟を包囲しました。

天正7年3月14日、武田勝頼が佐竹義重に、里見義頼を助け安房下総二国を平定するよう書簡しました。勝頼は上杉謙信の跡目問題(御館の乱)で景勝側に付いたために、織田・徳川に加え北条までをも敵に回したため佐竹との関係を模索し出したのです。

天正10年3月14日、織田信長が信濃国伊那郡浪合に着陣し、武田勝頼の首実検を行いました。信長は勝頼の首級を杖で突き足蹴にしたとされます。(常山紀談)

慶長5年3月14日、父の伊集院忠棟を島津忠恒により誅殺され島津本家に叛いた伊集院忠真が、徳川家康の使者・山口直友の降伏勧告を受け島津義久の富隈城に赴き降伏しました。(庄内の乱)

慶長3年3月14日、六角義賢が没しました。享年不明。

慶長20年3月14日、奥平信昌が美濃加納にて没しました。享年不明。長篠の戦いの当事者でその手柄から信長から「信」の字の偏諱を受けています。

写真は長篠城でする✨