旧暦の3月10日にはこんなことがありました。

享禄4年3月10日、細川高国、浦上村宗らが摂津国島下郡中島に出陣して、細川晴元、三好元長と中之島、住吉で戦うが敗れ天王寺に退きました。

天文5年3月10日、足利義藤が生まれました。幼名は菊幢丸、後の室町幕府第13代征夷大将軍・足利義輝。剣豪将軍としても有名で上泉信綱や塚原卜伝から剣術を学び、塚原卜伝からは奥義「一之太刀」を伝授されたと言われています。

天文15年3月10日、龍造寺山城守家兼(龍造寺隆信の曾祖父)が病没しました。享年93歳。家督は曾孫の胤信(後の龍造寺隆信)が継ぎました。

天文20年3月10日、北条氏康が上野平井城の関東管領上杉憲政を攻めに三万騎を率いて小田原を出陣しました。

弘治2年3月10日、里見義弘が江戸湾を渡海して北条領の相模三浦郡を攻めるが失敗、兵を引きました。この時義弘は鎌倉太平寺にいた幼なじみの青岳尼(小弓公方・足利義明の娘)を訪れて還俗して自分の妻になるように勧めました。彼女もこれに応じて江戸湾を渡り、義弘の居城である上総国佐貫城に入って間もなくその正室となりました。この房総への渡海について、北条氏康は「ふしぎなるおくわだて」と不快の意を表しており、その後、太平寺は北条氏によって廃寺となりました。この時青岳尼が房総へ渡る際に持ち出した「木造聖観世音菩薩像」は、後に交渉によって鎌倉に返却され、妹の旭山尼が住持を勤める鎌倉五山の東慶寺に納められ、現在も東慶寺の松ヶ岡宝蔵に保管されています。

永禄9年3月10日、足利義秋(義昭)が上杉謙信に、北条氏との和睦と京都回復を依頼しました。

元亀2年3月10日、武田信玄の異母弟・松尾民部少輔信是が亡くなりました。享年不明。武田信虎の五男であり、永禄8年時点では序列は武田義信の次席に遇されていました。

元亀3年3月10日、織田信長が近江国常楽寺に宿泊しました。(信長公記)

元亀4年3月10日、武田信玄に陥落させられた二俣城の菅沼定盈が武田と徳川との捕虜交換で解放されました。(武田信玄の西上作戦)

天正8年3月10日、大和国興福寺極楽坊に於て先年和泉国堺にて死去した筒井順政の17回忌の千部経が執行されました。(多聞院日記)

天正9年3月10日、織田信長が京都から安土に帰還しました。(信長公記)

天正10年3月10日、武田信玄の異母弟で武田二十四将の一人である一条信龍が上野城で徳川勢一万と交戦、手勢三百で切込み息子の信就と共に討死しました。(甲州征伐)

天正12年3月10日、羽柴秀吉が堀秀政らと伊勢国峯城を攻め、織田信雄に宣戦布告しました。(小牧・長久手の戦いの前哨戦)

天正13年3月10日、羽柴秀吉が正二位・内大臣に昇進し初めて参内しました。(兼見卿記)

天正18年3月10日、後北条征伐へ向かう羽柴秀吉が三河国吉田城へ到着しました。

寛永14年3月10日、宇都宮城の無断改築などにより改易の上、佐竹義宣お預かりとなっていた本多上野介正純が出羽国横手で亡くなりました。享年73歳。没日は2月29日とも。

写真は青岳尼が持ち帰った「木造聖観世音菩薩像」(鎌倉東慶寺蔵)でする✨