旧暦の3月9日にはこんなことがありました。

永正元年3月9日、赤沢朝経が細川政元に反旗を翻し宇治槇島城に立て籠もりましたが、摂津守護代・薬師寺元一に攻められて逃走しました。

大永3年3月9日、近江国大吉寺梅本坊で京極高清の後継者会議が行われました。京極の家督の争奪戦では浅見貞則、浅井亮政ら国人衆が推す長男の京極高広と、京極高清、京極信光が推す京極高吉が交戦しましたが、この過程で浅井亮政が近江国の実権を握りました。

天文11年3月9日、武田晴信が侵攻してきた小笠原長時・諏訪頼重・村上義清・木曾義康ら連合軍を信濃瀬沢に迎え撃ち、これを破りました。(武田信玄の信濃侵攻)
※この事積は甲陽軍鑑や地元史にしか記述が無く実際は無かったものと思われます。

天正6年3月9日、丹波の赤鬼こと赤井悪右衛門直正が病没しました。享年50歳。赤井直正は丹波最強の国人で、甲陽軍鑑には「名高き武士」として、徳川家康、長宗我部元親、松永久秀に先んじ筆頭として称されています。明智光秀の丹波攻めに抵抗しましたがこの日病没しました。

天正8年3月9日、毛利輝元の将・草刈重継が羽柴秀吉の将・隠岐土佐守及び宇喜多直家の兵を美作信山城に迎撃し、土佐守を斬りました。

天正8年3月9日、上杉景勝が織田方の佐々成政の越中小出城を包囲、一方長連竜は織田信長の後援を得て能登本領回復へ軍勢を進めました。

天正9年3月9日、織田信長の北陸侵攻により天正8年に落城した加賀白山の麓の府峠砦が一向一揆の反抗で一旦落城しましたが、この日佐久間盛政が府峠砦を奪還しました。

天正10年3月9日、小宮山内膳正友晴が討死しました。「譜代の臣でありながら、武田家最後の戦いに臨めぬのは末代までの恥辱」であり、「御盾となり高思の万分の一にも報いたい」と自身の忠節を貫く為に、蟄居中の身でありながら勝頼最後の地・天目山に駆け付けました。友晴は奮戦するも衆寡敵せず、鳥居畑で討死しました。(甲州征伐、天目山の戦い)

天正11年3月9日、柴田勝家の本隊が羽柴秀吉との決戦に向け越前北ノ庄を出陣しました。(賤ヶ岳の戦い)
本能寺の変にて織田信長が横死し、天下統一事業の継承を巡り、柴田勝家と羽柴秀吉の争いが一触即発となります。勝家の本領の北陸は冬期には身動きが取れなくなる為、天正10年11月3日、勝家は前田利家を使者として秀吉の元へ送り時間稼ぎの為に秀吉と和睦をしました。ところが同年12月2日、秀吉は大谷吉継により柴田勝家の甥の柴田勝豊を調略し長浜城を開城させました。また12月6日斎藤道三の実子で織田信孝の家老になった斎藤利堯の美濃加治木城を落城させました。秀吉は清洲会議を終えまだ交戦の準備の整っていない織田信孝と形だけの和睦を結びます。これにより三法師と母は秀吉に引き渡されました。これに対して滝川一益が柴田勝家側として挙兵し、亀山城、峯城、関城、国府城、鹿伏城を調略して制圧しました。更にこれに対して羽柴秀吉は天正11年2月12日に北伊勢に侵攻して同日に峯城を、2月16日には亀山城を包囲しました。ここに至り柴田勝家は耐え切れず積雪を越え羽柴秀吉との決戦に臨まんとし、北庄城を出陣したのです。

天正14年3月9日、天正壬午の乱以来抗争状態にあった徳川家康と北条氏政・氏直親子が講和を結び、また徳川家康の次女・督姫が氏直に嫁ぎ同盟関係になり、伊豆三島で会見しました。

慶長4年閏3月9日、島津忠恒(島津義弘の三男で島津義久の婿養子)が重臣の伊集院忠棟入道幸侃を京の薩摩屋敷において成敗しました。伊集院忠棟入道幸侃は上杉家の直江兼続の様に豊臣秀吉への取次役を果たしてしましたが、島津忠恒は「伊集院忠棟入道幸侃が豊臣秀吉と近く、大封を領し、専横を極めた」として殺害したのです。これが原因となり息子の伊集院忠真は「庄内の乱」と言う大乱を起こし島津家中は大混乱となり、結果として島津は関ヶ原の戦いに正規軍を派兵出来ない状態になりました。

写真は西光寺の柴田勝家の坐像でする✨