永正18年3月7日、足利義稙と細川高国の仲が険悪なものとなり義稙は和泉国堺に出奔しました。義稙は高国の影響下の京都を離れて高国討伐軍を起こそうとしたと考えられているが、これに従ったのは側近の畠山順光やごく一部の奉行人ら数名のみで政所頭人の伊勢貞忠や奉行人のほとんどは京都に留まって義稙を見限ることになりました。また、これが同月に予定されていた後柏原天皇の即位式直前のことであったため、天皇は激怒して高国に即位式の準備を命じて予定通りに挙行させました。高国は義稙に代わる新将軍として、11代将軍・義澄の遺児・足利義晴を擁立しました。

天文14年3月7日、観世大夫元忠が京都相国寺石橋八幡にて猿楽を勧進興行しました。観世大夫元忠は戦乱の世で芸能機会の減少により苦境に立った観世座を民衆を対象に勧進興行して再興させた人です。

永禄元年3月7日、織田信長が今川方の松平家次の尾張品野城を攻略するため五輪の山に山崎砦を築き1000の兵でこれを包囲したがこの日、松平家次が豪雨の中織田軍に夜襲を仕掛け織田軍は50名を討ち取られ撤退しました。織田信長初の黒星。(品野城の戦い)

永禄4年3月7日、関東管領山内上杉憲政を奉じた長尾景虎が武蔵・相模に侵入、この日10万を越える関東諸将を率いて北条氏康の小田原城とその支城を包囲しました。

永禄8年3月7日、徳川家康が天野康景、高力清長、本多重次の三人を三河三奉行に任命、民政・訴訟等を担当させました。 その頃「仏高力、鬼作左、どちへんなきは天野三兵」という俗謡が流行したとされ、これは三人の働きぶりを目の当たりにした領民からの揶揄も込められていたとされています。

永禄12年3月7日、徳川家康が掛川城の今川氏真を攻めました。(遠江侵攻)

元亀3年3月7日、織田信長が近江国小谷城と山本山城の間の与語・木本に放火しました。

天正10年3月7日、武田信虎の11男・武田上野介信友が捕縛され相川河原にて処刑されました。(甲州征伐)

天正12年3月7日、織田信雄が、香宗我部親泰へ羽柴秀吉が「天下之儀」を恣意に任せていることを述べ、羽柴秀吉に意を通じた織田信雄三家老を成敗したことを通知、香宗我部親泰へ上洛要請を覚悟するように告知しました。詳細は織田信澄に伝達させました。(土佐国古文書)

天正16年3月7日、大友義統が従四位下に昇進しました。(柳河大友家文書)

文禄3年3月7日、豊臣秀吉が伏見に築城を開始しました。伏見城は別名桃山城とも言われ、安土桃山時代の語源ともなっています。

写真は小田原城でする✨