旧暦の3月6日にはこんなことがありました。

大永2年3月6日、毛利元就の室・妙玖の兄である吉川元経が没す。享年64歳。

享禄5年3月6日、「宗祗終焉記」を著した室町時代最後の連歌師宗長が駿河で没しました。享年85歳。三条西実隆、細川高国、大内義興、上杉房能などの公家や有力大名との交際に広く、今川の外交顧問であったとも言う。諺「急がば廻れ」の元となった歌を詠んだことで有名です。

天文18年3月6日、徳川家康の父・松平広忠が没しました。死因には諸説あり、「三河物語」・「松平記」では病死とされ、「岡崎領主古記」では三河広瀬城主の佐久間全孝が放った刺客・岩松八弥(片目八弥)に殺害されたとされ、また「岡崎領主古記」では「岡崎領分渡利村の一揆生涯なし奉る」と記されており、これを織田弾正忠の武略としています。また「三河東泉記」には、岡崎城在城の時、片目八弥に村正の刀で殺害されたと紹介されています。

永禄2年3月6日、松平元康に長男竹千代(後の三河三郎信康)が生まれました。

元亀4年3月6日、将軍義昭が三好義継・松永久秀の両名を赦免しこれと同盟しました。勝機ありとみた足利義昭は翌日、信長からの人質を拒否し断交、織田信長に宣戦布告しました。

天正10年3月6日、武田二十四将の一人である小幡昌盛が病没しました。織田信長の甲州征伐時には既に病床にあり参戦はできませんでした。小幡昌盛は落ち延びてゆく武田勝頼に甲斐善光寺にて暇乞いをしました。その後病死したとされます。勝頼の自刃の僅か5日前でした。

天正11年3月6日、出羽尾浦城主大宝寺義氏が、最上義光に通じた家臣・前森蔵人の謀反により城外の高館山にて自刃し果てました。享年33歳。

天正12年3月6日、織田信雄が岡田重孝・津川義冬・浅井長時の三家老を長島城に呼び寄せ秀吉に内通した疑いで誅殺しました。秀吉の計略に引っかかり股肱の家臣を失ったのであるが、これは同時に秀吉への宣戦布告でもありました。(小牧・長久手の戦いへと続く)

元和3年3月6日、最上義光の次男で出羽山形藩第2代藩主・最上家第12代当主の最上義親が江戸屋敷にて猿楽を見物している最中に毒殺されました。享年36歳。

寛永14年閏3月6日、丹羽長秀の長男・丹羽長重が江戸桜田上屋敷にて没しました。享年67歳。

写真は小幡昌盛が武田勝頼に暇乞いをした甲斐善光寺でする✨