旧暦の3月3日にはこんなことがありました。

天文7年3月3日、龍造寺隆信の大叔父で教育係であった宝琳院の住職豪覚が没しました。

天文18年3月3日、大和国に筒井藤勝(後の大和国郡山城主・筒井順慶)が生まれました。父は筒井順昭。父の死後元の木阿弥を影武者として置き成人してから家督を継ぎました。

天文20年3月3日、織田備後守信秀が末森城にて疫癘のため没しました。享年42歳。家督は嫡男織田信長が継ぎました。

天文21年3月3日、大友晴英が大内義長と改名し、大友氏の家督を継ぎました。

天文23年3月3日、今川義元・武田信玄・北条氏康が伊豆の善得寺に集まり、太原雪斎が三者相剋の不利を説き婚姻をまとめて甲相駿三国同盟を結びました。

永禄3年3月3日、但馬天神山城主山名豊定が病没しました。享年49歳。

天正4年3月3日、柴田勝家が越前に於いて七箇条の掟書を発しました。

天正10年3月3日、高野衆が紀伊菖蒲谷に布陣する織田勢を襲いました。

天正10年3月3日、武田勝頼が築城間もない新府城に火を放ち小山田信茂の郡内岩殿城へ向かいました。

天正10年3月3日、織田信長が、織田信忠へ駿河国の穴山信君が謀反したため武田勝頼が甲斐国へ撤退したこと、穴山信君が徳川家康に内通したこと、信濃国大島から飯島への陣替を諒承したこと、織田信忠のこれ以上の前方への進軍は一切無用であること、織田信長自身は近々出馬するので武田軍を容易く撃破する予定であることを通知し、また河尻秀隆へもこの事を通知した旨を通知しました。(関戸守彦氏所属文書)

天正10年3月3日、徳川家康が甲斐国南松院へ全3ヶ条の禁制を出しました。(南松院文書)

天正18年3月3日、後北条氏征伐に向かう羽柴秀吉が近江八幡に到着しました。

慶長2年3月3日、下総国守谷藩主・土岐定政(菅沼定政)が没しました。享年47歳。

慶長2年3月3日、槍の又佐の異名をもち豊臣秀頼の後見人・五大老の一人である前田大納言利家が伏見の自邸で病没しました。享年62歳。

慶長7年3月3日、龍造寺家の当主高房が、江戸屋敷において夫人を刺殺し自殺を図るが失敗しました。

写真は岩殿城でする✨