旧暦の3月2日にはこんなことがありました。

永正14年3月2日、連歌師の宗長の仲介により武田信虎と今川氏親の間の和睦が成立し、今川氏は甲斐国から撤退しました。

天文9年3月2日、木下秀長が生まれました。幼名は小竹。豊臣秀吉の異父弟で後の大和大納言・豊臣小一郎秀長です。豊臣政権において内外の政治面及び軍事面を支えました。

天文21年3月2日、後北条氏により平井城を落とされた上杉憲政が利根吾妻の上野北部より越後国に退き長尾景虎の許へ逃れました。

弘治3年3月2日、毛利元就が西周防の山崎興盛の須々万沼城を落としました。毛利軍は早朝、網竹や筵で沼地を埋め立て城に迫り、籠城していた男女1500余人を惨殺しました。城主山崎興盛は後に自刃しました。(毛利元就の防長経略)

永禄8年3月2日、北条氏康が簗田晴助の関宿城を攻めました。前年の第二次国府台合戦における里見氏勢力の衰退によって後顧の憂いを無くした北条氏康は太田氏資と共に関宿城を攻めましたが、簗田晴助は巧みな伏兵でこれを撃退し、上杉謙信と常陸国の佐竹義重が晴助救援のために出兵すると北条軍は撤退しました。その後、晴助と氏康の間で講和の話し合いが持たれたものの、合意には至らなかった。(第一次関宿合戦)

永禄12年3月2日、禁裏より織田信長へ万里小路惟房と広橋兼勝が勅使として派遣され「副将軍」推任が通達されるも、信長はこの推任に返答しませんでした。(言継卿記)

天正10年3月2日、織田信忠が信濃国高遠城を攻略しました。武田信玄の五男で猛将仁科盛信は良く抗戦しましたが自刃して果てました。享年26歳。

写真は関宿城跡でする。関宿城の薬医門は現在逆井城に移築されておりまする。