天正10年2月伊那口から甲斐を攻める織田信長の嫡男・信忠は武田家臣の裏切りにより道案内等を受けて織田勢は刀を鞘から出さずに高遠城に至った。守る城主は信玄五男の猛将仁科五郎盛信でした。盛信は信忠の降伏の勧告を伝える僧侶の耳を切り落とし返し5万と言われる織田勢を迎え撃ちあくまでも徹底交戦を選びました。
3月2日、織田勢の総攻撃が始まる。雲霞の如く押し寄せる織田勢を盛信は3000の兵で支えたが衆寡敵せず城兵は悉く討死した。最後を悟った盛信は腹をかっ捌き、腸を壁に投げつけたと言います。誠に見事な最後でした。

時は流れ天保2年、高遠藩七代藩主内藤頼寧は家臣の中村元恒の建議を受け入れ五郎山から仁科五郎盛信の御魂を高遠城に受け入れ、内藤家の祖神である藤原鎌足の霊と合祀しました。以来、仁科五郎盛信は高遠城にて

「新城神」

として祀られ現在に至っています。

仁科五郎盛信の肖像画




高遠城の戦いの戦死者の供養碑

仁科五郎盛信を「新城神」として祀る藤原社、高遠城の本丸にあります。