石橋山にて大敗を喫した頼朝は安房国平北郡猟島に上陸、下総への道中に上総国望陀郡飯富庄の飽富神社(飫富神社)に立ち寄り休息しました。この上総国望陀郡飯富庄は吾妻鏡にも出てきます。

『吾妻鏡』の元歴2年6月5日条

『季貞の子、源太宗季あり、宗季は矢作りが上手く御家人に登用された』

とあります。

宗季は上総国望陀郡飯富荘(おふのじょう)の地を源頼朝から拝領し、地頭として甲斐飯富(おぶ)氏の祖となったのです。しかし、その後の和田義盛の乱の後、この飯富の地は得宗北条家の領地になっており、宗季つまり飯富氏の足取りは不明になっています。

『甲斐国史』によると、宗季が逸見冠者の猶子となり、甲斐の巨摩郡飯富郷を領して郷名に因んで飯富姓を名乗ったとある。しかしそれは江戸時代の歴史書であり、信憑性が薄いと言われている。

吾妻鏡、甲斐国史どちらが正しいかは今となっては分からない。しかし、武田24将の山県昌景の飯富氏と上総の飯富荘は間違えなく繋がっています。

飯富虎昌の飯富氏は、実は上総が本貫の地であり、和田義盛の乱の後に氏族の一部は甲斐へ落ち、また一部は美濃の山県市の辺りに落ちたと推察されます。美濃に落ちたのが虎昌の飯富氏であろう。美濃には雄総(おぶさ)と言う地名がある。これは上総に繋がります。

『甲陽軍鑑』によると永禄8年7月15日武田義信は飯富虎昌と共に武田信玄に対する謀反を企てた咎で捕縛された。密告したのは弟源四郎、そして同年10月15日飯富虎昌は切腹して飯富家はお家断絶、弟源四郎は山県氏の名跡を継いで山県三郎兵衛昌景を名乗ったのです。



飽富神社





飽富神社の下にある飯富寺
寺紋は偶然なのか山県昌景と同じ桔梗紋