場所は富浦町の興禅寺と館山市の泉慶院跡にあります。
青岳尼は小弓公方・足利義明(鶴岡八幡宮若宮別当、雪ノ下殿=空念)の息女で、第一次国府台合戦で父・足利義明が討たれた後、里見義堯に引き取られ、幼少期を里見義弘と過ごします。この頃義弘との淡い恋心が芽生えたと思います。その後どう言う経緯か分かりませんが、鎌倉の太平寺に入ります。太平寺は鎌倉公方家の庇護を受けていた鎌倉五山の筆頭の格式の高いお寺であり、小田原北条家も庇護をしていました。奇しくも父・足利義明を討った北条氏康の庇護を受けることになります。
弘治2年(1556年)、里見義弘は兵船を率いて小田原北条領の鎌倉を攻めます。上陸し進攻し小田原北条軍に勝利すると、太平寺にいた青岳尼を連れて帰えろうとします。青岳尼には幼少期からの恋を実らせたい気持ちになったと思います。しかし、身分は鎌倉五山筆頭の太平寺の住持でありました。青岳尼は悩んだ挙句、太平寺の御本尊である「聖観音菩薩像」と共に海を渡って佐貫城に入ります。こうして青岳尼は還俗して里見義弘の正室になり、幼少期からの義弘との恋を実らせたのです。
興禅寺はその青岳尼が開基したお寺です。門前には今でも里見氏の家臣のお宅があります。その家臣の末裔の岡本さんお宅へ行くと奥様がいらっしゃり、蔵の中から、里見の殿さまから下賜されたと言うお椀を持って来てくれました。
ところで、太平寺はその後北条氏康の逆鱗に触れ廃寺になります。しかしご本尊の「聖観音菩薩像」は北鎌倉の東慶寺(縁切寺)に今でも現存しています。
その後の青岳尼は長生きはしませんでした。永禄年間の没とも、天正4年(1576年)の没ともされています。
戒名 智光院殿洪嶽梵長大姉
戦国の女性、波乱万丈の一生でした。