場所は茨城県古河市の鮭延寺です。このお寺には、出羽の猛将・鮭延越前守秀綱のお墓があります。

鮭延氏は元々近江源氏・佐々木氏で、出羽に下り横手の小野寺氏に仕えました。秀綱の父・佐々木貞綱は庄内武藤氏の侵攻に追われ、最上川水系の支流鮭川の畔の真室川町内町の鮭延城(真室城)に退き、居城名の鮭延姓を名乗りました。

天正9年(1581年)最上義光は鮭延城に侵攻します。若干16歳ながら城主であった秀綱は長期に渡り最上勢に抵抗した。しかし兵力兵糧も尽き果てて、夜陰城を脱出し庄内へ逃れたとも、降伏開城したとも言われています。いずれにせよ最上家に降った秀綱は最上家の武将として働きます。鮭大名と言われた最上義光の家臣に鮭延が入ってきた訳ですね。

時は流れ慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いに呼応した長谷堂城の戦いでは副将を勤め、迫り来る上杉勢に対して城から討って出て250名を斬り伏せて、上杉本陣まで迫ったと言います。

『永慶軍記』にはその場面が次の様に記されています。

~~鮭延四五十騎の鼻をならべ、切先を揃えて駆ければ、会津勢取囲んと思ひけん。陣を奮しが、鮭延少も猶予せず縦横に破り、巴に追廻し、前後を払て突き伏せ、切倒せば、流石に聞こえし会津勢も一陣、二陣混乱して、既に直江が本陣まで近づく。中にも鮭延左衛門尉(秀綱の嫡男)いまだ十六歳の若者なれども、力尋常に勝れしが、大音揚げて「敵の大将を組留よ。直江はあれに見ゆるぞ。兼続が旗は夫ぞ」と喚き叫んで駆けちらす。其勢い悪源太義平が勇力にも勝るべくぞ見えにけり。敵三人を突落し、手疵負せしは数を知らず。我身も六ケ所疵を蒙り、同新田十助五人を突伏せたり。越前守は三尺五寸の太刀を片手にとりて、冑の鉢を割付け、篭手、脛当、草摺ともいはず当るを幸に切り落とす。~~

また

「さても今日鮭延が武勇、信玄・謙信にも覚えなしと、後日直江が許より褒美をぞしたる」

と記されており、敵の主将・直江兼続により戦後褒美を頂いてます。

関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利を収めると最上義光は出羽山形57万石に封じられ、秀綱も真室城に11500石を拝領しました。

しかし、元和3年(1617年)の最上家の家督継承問題をきっかけに最上氏が事実上改易されると、元和8年(1622年)下総佐倉の土井利勝お預かりとなります。この翌年最上騒動の不始末を許されて、2代将軍秀忠は鮭延秀綱を駿河大納言忠長の附家老として招聘しようとしましたが、秀綱はこれを固辞し土井家の客分となりました。この時5000石の知行を賜りますが、これを山形以来の家臣14名に分け与えたと言います。そして独り身の秀綱はホームレスとなり、家臣の家を泊まり渡って暮らしました。

寛永10年(1633年)土井家と共に古河へ移り、正保3年(1646年)6月21日死去、家臣たちにより鮭延寺が建立され此処に眠っています。鮭延秀綱の縁の山形県真室川町と古河市は姉妹都市になっています。

               出羽の猛将・鮭延秀綱






                    鮭延寺本堂です。

                 鮭延秀綱のお墓です。