上野国新田荘世良田
                   ~世良田山長楽寺

徳川家の祖である世良田氏の本貫の地にある長楽寺です。ここには徳川家の始祖である新田義季公のお墓があります。新田義季は世良田郷と得川郷を領しました。

大河ドラマ「麒麟がくる」では、今川義元が三河守に叙任され、元康の目の色が変わりましたが、元康が三河守に叙任されるのは永禄9年でまだ後の話しです。近衛家文書(近衛前久が息子・信尹に出した書状)によると、家康が三河守を望んだ所、松平の始祖である世良田源氏が三河守に叙任された事が無いとの理由で正親町天皇から三河守叙任を拒否されました。家康は近衛前久に相談し、近衛前久と吉田兼右は源氏から藤原氏へ本姓を変え三河守に叙任された古事を見つけました。

家康は、世良田義季の末裔ではあるが、世良田頼氏(義季の息子)の嫡男と弟の時に源氏から藤原氏支流へと分流したと称しました。そして得川氏の末裔として松平から徳川への改姓と本姓を藤原氏へ変更して従五位下三河守に叙任されました。家康は一時藤原氏を称していたんですね。

ところで開山堂の右横には、江戸時代の新田岩松氏の岩松守純、豊純親子の宝篋印塔があります。新田岩松氏は戦国時代には家臣の由良氏(横瀬氏)の下克上に合い、太田金山城を追いやられていましたが、秀吉の小田原征伐により由良氏は妙印尼(このばあさんは成田甲斐のおばあさんです)の功績で常陸牛久に転封、新田岩松氏は復権しました。

当主は守純でした。この時家康に接見した守純は新田氏の系図を披露することを家康から求められました。しかし、家康の魂胆が徳川の系図の改竄にある事を察知しこれを拒みました。これに対し吝い家康は、旗本としては知行20石(後に120石)と最低の録高で交代寄合として召抱えました。また新田氏を名乗る事も拒まれ、大名並に参勤交代も強いられ、江戸期の岩松の殿様は4代もの間、猫絵を描いて売って暮らし、「猫絵の殿様」と言われた貧乏殿様でした。この猫の絵はネズミ避けとして結構売れたらしいです。

そして明治維新を迎え、岩松氏は尊皇攘夷の志士・桃井可堂から誘われ、新田勤王党を組織し戊辰戦争では官軍として働いた。そして明治維新後、牛久の由良氏と太田の岩松氏の間で新田氏嫡流問題が起こりましたが、明治政府は岩松氏に新田氏を名乗る事を許したのです。
               世良田山長楽寺です

天正18年家康は天海をこのお寺の住職として任じました。

新田引き両と徳川の三つ葉葵が並んでます。

      義季公以来の累代の墓所です。
  真ん中の白いお墓が義季公のお墓です。
                  岩松氏の猫絵です。

      岩松守純、豊純親子のお墓です。
岩松守純とその室、豊純とその室の戒名があります。