新井城にある三浦義同(道寸)、義意の供養塔

新井城は三浦半島にある三方を海に囲まれた三浦氏の居城です。永正9年(1512年)伊勢盛時(北条早雲)は新井城に三浦氏を攻めます。この戦いは足掛け4年にも及び、籠城する三浦氏は扇谷上杉からの救援物資を頼み、日本史上最長の籠城戦となります。

攻める北条側は、三浦半島の付け根に玉縄城を築城し補給路を遮断します。さしもの三浦義同もここに撃って出ることを決断、永正13年(1516年)7月11日の事です。しかし多勢に無勢であり切腹して果てます。息子の義意は85人力と言われる猛将、父の切腹を知ると、城を出て21人まで切り伏せたと言うが、やはり討ち死となります。次男通綱は里見氏を頼り安房に落ちます(諸説あり)が、戦国大名としての三浦氏はここに滅亡します。

冒頭の句は、三浦義同の辞世の句になります。

「討つものも討たるるものも土器(かわらけ)よ   砕けて後はもとの土くれ」

討つものも討たれたものも死んでしまえば砕けた土器(かわらけ)の様に土に戻るだけ、と言う意味です。

討たれて土くれになった義同、そして因果応報なのか?奇しくも、74年後(天正18年、1590年)の同じ7月11日に討った側の北条早雲の曾孫・北条氏政が切腹し、戦国大名としての小田原北条氏は滅び、土くれになったのです。三浦義同は小田原北条の末路を言い当てたのでしょうか?



ここは海蔵寺の墓地でもあります。

             三浦道寸(義同)の供養塔です


         息子の三浦義意の供養塔です

              三浦氏の新井城石碑



      ここに籠城の際の兵糧を貯えました

新井城跡の一部はは京急油壺マリンパークの敷地になっています。