徳川家康には20人の側室がいたと言われていますが、紀州徳川家の始祖である頼宣、水戸徳川家の始祖である頼房を産んだのは、養珠院(お万の方)になります。

お万の方は、上総の勝浦城主、正木頼忠の娘として天正8年(1580年)に勝浦城で産まれました。母は後北条氏の娘とも、後北条氏の家臣の娘とも言われています。

万が生まれた頃は、勝浦正木家は頼忠の兄の時通が当主であり、頼忠は小田原北条家へ人質として預けられていましたが、時通の死去によって万の母と離別し、勝浦正木家の当主として勝浦へ戻りました。その時、万の母は北条家臣の蔭山氏広と再婚し、蔭山氏広を養父として育てられました。それゆえ万は蔭山殿とも言われています。

万が徳川家康の即室になったのは慶長元年、17歳の時であり、伊豆の豪族江川太郎左衛門の幼女として徳川家康の側室となりました。この頃の家康の実子は、秀忠、忠吉、信吉の3人であり、長男の信康は既になく、次男の秀康は結城家へ養子に行き、250万石の大名としては、子が少なくそのあたりの事情で若い万を側室にしたと思われます。

万の有名な逸話があります。

もともと徳川家は浄土宗です。ある時、日蓮宗側が浄土宗に宗論を投げかけた時の話しですが、家康は密かに日蓮宗側の論客を襲わせました。その為宗論で敗れた日遠は、家康から

「日蓮宗の教義は無意味である」

という誓詞を出すように言われます。

ところが、日遠はこれを拒み、久遠寺の法主を辞し、新たな宗論を浄土宗に投げかけます。怒った家康は、日遠に磔刑を申し付けたのです。

養父の蔭山家は日蓮宗を信仰しており、万も日遠に帰依していた関係で、これに驚いた万は、日遠と自らの白装束を縫い始め、家康にたいして、日遠と共に自害すると言い出したのです。これには家康も仰天し、日遠を許すとこになりました。

この事が当時の帝の後陽成天皇の耳に入り、後陽成天皇から

「南無妙法蓮華経」

と書かれた御宸翰をもらっています。

その万ですが、14歳の時生誕地の勝浦城を落城にて失います。落城の際、幼い弟と母を連れて八幡岬の東側約40mの断崖に白い布を垂らして海に下り小船で館山方面へ逃れたという故事にちなみ、ここを

「お万の布さらし」

と呼び後世に伝えています。

八幡岬公園の海を臨む小高いところにお万の方の像が立っています。


お万の方生誕の地・八幡岬公園(勝浦城)です。






         養珠院(お万の方)の銅像です。




                  お万の布さらしです。