佐竹義宣家臣・車丹波守斯忠(つなただ)、渾名は猛虎(たけとら)

佐竹の家臣では真壁氏幹とか客将・梶原政景辺りが名が知られていますが、車丹波守斯忠と言う武将がいました。この武将元々は常陸国の車城主(現在の北茨城市)・車兵部大輔義秀の子であり、車家は岩城氏の庶流、父義秀は佐竹に対する最前線として佐竹に抗していましたが、後に佐竹に降ります。車丹波守斯忠は、なかば人質として佐竹義重に仕え、次第に武功をあげ猛将として名を馳せます。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、佐竹は中立を保ちますが、実は車丹波守斯忠は佐竹義宣の命により、佐竹家を離れ士卒300人を率い上杉景勝に助力したと言う説があります。その説によると、福島・梁川で伊達攻めに参戦しています。

家康による関ヶ原の戦後の仕置きにより、佐竹義宣は常陸国54万石から出羽秋田に20万石に減封の上領地替えになりましたが、この時、車丹波守斯忠はこれに猛反発し、水戸城を奪還しようとし徹底抗戦します(徳川頼房の暗殺まで計画した)が、これに失敗します。慶長7年(1602年)7月、捕縛されて子の主膳正光とともに磔刑に処されます。勇猛な武将を罪人なみに磔刑に処した話しを聞いた徳川家康は不機嫌になり、

「武家の道を知りたる者を空しく殺しけるよ」

と嘆いたと伝えられてます。

現在の水戸市元吉田には、車丹波守斯忠の居館跡である吉田城跡があり、その近くには磔刑に処された場所があり、地元では「きつね塚」と呼ばれています。また、首塚も残っており、幕末には長州藩の吉田松陰が車丹波守斯忠の勇猛さを知り、訪れてお参りしています。

この話しには続きがあります。磔刑に処された車丹波守斯忠には、善七と言う子が居ました。善七は仇を取ろうとして徳川家の草履取りになり、家康の命を狙ったと言います。しかし露見して家康の元へ引き出されました。それを見た家康は

「其の孝義勇壮を感じ給ひ、追って有司に命ぜられて、乞食の徒の首領と」したといいます。

この善七が、実は「フーテンの寅さん」のモデルの一人である江戸浅草の非人頭の車善七の初代と言われています。

車丹波守憤恨の地、ここで隠れていて咳をした為に見つかってしまいました。

幕末には長州の吉田松蔭が訪れれたと言います。
                                 車塚


車丹波守斯忠が磔刑に処せられた場所です。地元では「きつね塚」と呼ばれています。

吉田城です。車丹波守斯忠の居城になります。
吉田城には江戸期に水戸光圀が常照寺を創建しました。