八王子にある曹洞宗金龍山信松院です。開基は信玄公の五女松姫です。開山和尚は仏国普照禅師(随翁舜悦卜山和尚)になります。

松姫は永禄4年(1561年)9月に生まれました。母は油川夫人。時に信玄が川中島で上杉謙信と戦っていた時ですね。当時武田信玄の強さは際立っており、織田信長は松姫と嫡男信忠を政略結婚させようとし、婚約させました。元亀3年(1572年)信玄が西上の途中三方ヶ原で徳川家康と戦うと、織田信長は援軍を派遣します。これにより信忠と松姫の婚約は破棄されます。そして信玄公が西上途中で病に倒れると、武田家を嗣いだ勝頼も時代の流れに抗しきれずに天正10年(1582年)3月11日天目山で自害し、戦国大名としての甲斐武田家は滅びます。

松姫は、織田の軍勢が攻めてくるのを知り、兄・仁科信盛の高遠城から甲府にもどり、兄の仁科信盛の息女小督姫、勝頼の息女貞姫、小山田信茂の息女香貴姫を伴い武蔵に落ちます。その場所が、写真にある恩方第2小学校がある所で、ここの金照庵で一時過ごした。近くにはそれを示す石碑があります。

その後近くにある心源院と言うお寺を訪れ、随翁舜悦卜山和尚の元で剃髪して法名「信松禅尼」としました。時に22歳でした。そして天正18年、いまの金龍山信松院の場所に庵を置きました。

松姫は小田原討伐後に関東に入った徳川家康と親交を結び、この地に寺領を貰っています。そして地元領民に手習いを教えたりしていたそうです。家康もこの八王子を甲信への備えと考えており八王子に武田遺臣を千人同心を置きました。松姫のお墓の後ろにその千人同心の頭(かしら)の名前が刻まれた石版が立っています。

時は下り元和2年(1616年)4月16日、松姫は没します。享年56歳

戒名  信松院殿月峯永琴大禅定尼

奇しくも翌日に徳川家康が亡くなっています。

信松院では松姫のの16日月命日には寺宝を見る事が出来ます。



                         松姫の坐像
                         松姫のご位牌
           武田信玄公秘蔵の陣中守本尊
          松姫所蔵の信玄公の薙刀と槍
                      武田二十四将図
                  武田晴信初陣の図
織田家との結納祝いの為、徳川家康から武田家に贈られた椀具です。武田菱と織田木瓜の家紋入りです。
    松姫のお墓です。香花が絶えません。
     八王子千人同心の頭の名前入の石板
下恩方第2小学校、ここに金照院がありました。陣馬街道沿いです。
           下恩方にある松姫の石碑